8月20日デモ報告*8がつ 20にち でも ほうこく

**ふたつめ かんじ つかって いません**

 

みなさん、はんにちわー

毎日毎日飽きずに暑いですね!
日中はできるだけ動かずに、涼しい部屋でごろんごろんしていたいものですね。
というわけで、今回は夜デモにしてみました。

夕闇迫る三条河原にぞくぞくと反日非国民が集まります。
夜だから、暗くてプラカードとか見えないかも…?って心配は無用です。
夜の河原町通りは、私たちのようなデモ隊がつまづかないようにでしょうか、
店のあかりや道路照明で、昼間のように明るいです。
そんな中を、いつものようにゆっくりと踏みしめるように歩いていきます。

《スピーチ》
〜通りをご通行中のみなさん、はんにちわ。反日非国民集団です。

 

アメリカ合衆国南部のヴァージニア州シャーロッツビルで白人至上主義を掲げる人種差別主義者らによる憎悪扇動

、憎悪殺人の映像が連日私たち含む世界へと発信されています。

みなさんは、これをどのように受けとめていらっしゃるでしょうか?

 

なかには「在特会」のような日本の排外主義団体をその姿に重ねてみたかたもいるかもしれません。

確かに、日本社会における排外主義もまたアメリカに引けを取らず激しくあります。「在特会」の登場を待たずともたとえば90年代の朝鮮学校に通う女生徒の制服を切り裂く「チマチョゴリ切り裂き事件」が頻発しました。2002年の日朝会談で「拉致事件」がクローズアップされ日本の朝鮮悪魔化が最高潮に達して以降、朝鮮学校生徒に対する暴行事件、学校への脅迫電話などは一層烈しいものとなりました。今年の5月には名古屋で在日朝鮮系の信用金庫に対する放火事件まで起きてしまいました。先日この事件に対して名古屋地裁で判決がくだされました。懲役2年、執行猶予4年だそうです。

白昼、たくさんの利用者がいてもおかしくなかった銀行への放火に対して懲役2年、それも執行猶予付きという判決をどう捉えていいのか私には言葉がありません。

 

韓国や中国からの観光客などに対して差別排外主義をあらわに入店・接客拒否をする商店や、接客と称して嫌がらせ行為に及ぶ事例も少なくありません。

そして、平和と自由をもとめる社会運動においてすら「国民なめんな!」といった私たち反日非国民を露骨に排除する言葉が選ばれ叫ばれ続けていたりもします。

排外主義はそれほど日本社会全体の隅々にまで蔓延しています。

それは日本政府という国家権力こそが差別排外主義を先導・扇動してきたからではないでしょうか。

 

2010年から続く朝鮮学校生徒に対する無償化除外という差別に対して、先月に大阪地裁で画期的な判決が出ました。国による朝鮮学校への無償化適用除外について「無償化法の趣旨を逸脱しており、違法、無効だ」として適用を義務付けたのです。

三権分立などとっくに形骸化しているといってよいほど日本の裁判所は国家が相手の裁判ではまともな判決を書いた試しがほとんどありません。そんな中で得られた勝訴は特別な意味があります。

排外主義を隠すこともなく国は控訴をしましたが、今すぐ差別を認めて、遡って支給をしろ!とみなさんも声をあげてください。

国が朝鮮学校に対する無償化除外を決定して以来、そして、昨年に文科相朝鮮学校に対する補助金支給について「通達」という圧力を加えてからはさらに拍車をかけるように、朝鮮学校に対する補助金支給を凍結する自治体が増えました。国が先導・扇動する差別はこうして地方へと拡大していき、また、メディアや文化人らの無責任な偏見・差別も垂れ流され、民間のヘイトクライムへとすべて繋がっているのです。

私たちは地方自治体に対しても国の差別政策になびくように補助金支給凍結などという差別を即刻あらためて在日朝鮮人の民族教育権を保障することを強く要求します。

 

そして、この差別・排外主義を利用しながら進められている軍事化にも私たちは抗っていきます。

在日朝鮮人に対する官民問わずふきあがる差別排外主義と朝鮮敵視政策は一体のものであり、朝鮮を悪魔化し「仮想敵」としてその脅威を煽ることによって政府は制度面も含めてこの社会の軍事化を正当化して進めてきました。秘密保護法も、戦争法も、共謀罪もみなそうです。

2006年以来すでに10年以上も続く朝鮮制裁に国会議員のうち誰1人として反対の声をあげたことのない状況を不問にしたまま「野党共闘」を叫ぶ運動はあまりに滑稽です。

 

戦争は差別を利用します。ひとびとを「敵」と「味方」にわけ、「敵国民」として朝鮮人を排除してきたし、「国家の安全保障」の名のもとに沖縄を米軍基地化して犠牲を強要してきました。

排他的かつ戦争主体としての「国民国家」というシステムが恣意的に引く境界線によって私たちの基本的な生の条件がいたるところで脅かされているのです。

日本で生まれ育ったにもかかわらず両親がオーバーステイだとして強制送還の危機におびえる家族がいます。

安価な労働力として搾取して使い捨てにされたあげく、入管に拉致監禁されている人々がいます。持病があるにもかかわらず、あるいは拘禁された生活の中で心身の健康が脅かされてもまともな医療を受けさせない虐待状況が入管ではまかりとおっていることを知ってください。

そして抗議してください。

 

そんな国民国家の「象徴」とされる天皇明仁が先週8月15日の全国戦没者追悼式で「過去を顧み、深い反省」と述べたことに対して、戦争を煽る安倍政権と比較しながら、明仁をまるで平和主義者のように賞賛する声があります。とんでもないナンセンスです。

明仁の父である天皇裕仁は侵略・植民地支配、大量殺戮の最高責任者でありながら敗戦後もその責任を一切とることなく自らの保身と引き換えに沖縄を米軍基地化しました。

そんな裕仁から天皇の地位を継承した明仁がその生涯をかけて成し遂げようとしたことは天皇侵略戦争・植民地支配責任をひたすら隠ぺいし、天皇制という戦争主体としての国民統合機能の存続です。

明仁が口を開くたびに上塗りされるのはこの日本社会の無責任の体系です。

 

無責任の体系、日本軍性奴隷制の被害女性たちに対する日本社会の態度はそれをもっともよくあらわしているように私には見えます。

対朝鮮軍事協力を目論む日韓政府による被害者を蚊帳の外においてなされた破廉恥でなんの正当性もない「日韓合意」に胡座をかき、公式謝罪と法的賠償、真相究明、記憶の継承、そして責任者処罰を訴える声に対して知らんふり、果ては逆ギレを続ける加害国日本の市民たち一人ひとりのなかに天皇制が息づいています。

 

天皇制と平和は共存不可能です。天皇制は戦争のためにあります。天皇制とは身分制です。天皇制とは差別の別名です。私たちはともに天皇制を潰すことを呼びかけます!

 


夏の夜は、みなさん少し開放的になるのでしょうか。
沿道からは、明らかに怒号ではない声援や、シュプレヒコールを唱和する声も。
私たちの太鼓のリズムに合わせてからだを揺らす人も見かけました。

シュプレヒコール
日の丸を 焼こう 破こう 降ろそうよ

君が代を 流すのやめろ 歌わんぞ

天皇制 差別の根源 なくそうよ

「陛下」とか 「様」「様」つけるの やめましょう

「国民」に 統合されるの 拒否しよう

ヤスクニは 軍事施設だ つぶそうよ

入管は 殺人施設だ つぶそうよ

米軍の 押しつけゆるさん 沖縄へ

米軍は 世界のどこにも いらないぞ

自衛隊 日本の軍隊 なくそうよ

朝鮮の 敵視をやめろ いますぐに

国籍で ひとの生き方 せばめるな

廃止しよう 差別を生み出す 戸籍制度

やめにしよう 排除の祭典 オリンピック

 

 

しかし、そんな私たちの声を、京都府警の警官たちは、
「前に進んで!!!」(←進んでるからここまで来てるがな…)
「(交差点を)渡りきって!!」(←言うてる間に渡りおわるがな…)
「左に寄ってください!!」(←これ以上左に寄ってええんか…?)
「もう8時になりますよ!!」(←誰も時間はきいてへんがな…)
等々、ものすごい大声でかきけそうとします。
「警察、うるさーい!」
警察は、なんとかして私たちの主張が人びとに伝わるのをじゃましたいのでしょうか。
ということは、もっともっと私たちは沿道にじっくりしっかり伝えていかなくてはなりませんね。
私たちは、沿道のみなさんに伝えたいことがあるからデモをしているわけで、
警察の怒声ばかりを聞かせる機会をわざわざつくっているわけではありません。

警察は 自由なデモを じゃまするな!!

さてさて、そんな「デモじゃまし隊」の警察、なぜか毎回四条大橋のあたりでヒートアップします。
警察が大声でデモをじゃましてくるものだから、私たちが抗議をしていると、
沿道から「交通のじゃまなんじゃ!」という声。
警察ではない、通行人の方からのご意見でした。

ねえみなさん、
日本に住む朝鮮人の女の子が、スカートを切られたり、
朝鮮にゆかりのある銀行が放火されたりしていて、
そんな差別を止めなくてはならないはずの政府は、朝鮮学校を高校無償化から不当に除外してるんですよ。
法務省入管は日本に住みたいという外国人を無期限で閉じ込め、満足な医療も与えず殺してるんですよ。
障害者を何人も惨殺したうえ、安倍首相にそれを手柄として報告してる人がいるんですよ。
政府と電力会社は地方に原子力発電所をおしつけ、原料の生産段階から被ばく労働を貧しい人におしつけ、
いざ原発が事故を起こしたら、避難しようとする人の生活の保障をしないどころか、
汚染された地域に戻ることを推奨することで、その地方の人びとを分断しているんですよ
政府は、そこに住む人が「いやだ」といっているのに、法をやぶってまで、美しい沖縄に軍事基地をつくって、
また人を殺す段取りをしようとしているんですよ。
日本の軍隊に騙されたりさらわれたりして、性奴隷にされた女の人を、
いまだにうそつきよばわりする人がたくさんいるんですよ。
日本の人を何百万人も殺したうえ、アジアの人を何千万人も殺した人は、
いまもあいかわらず「てんのう」って呼ばれて、下にも置かない扱いを受けてるんですよ。
そんなときに、いつもどおりぶいぶいと交通を動かしてていいんですか?
差別、排外をその仕組みに組み入れて、進めるほどに誰かを生きづらくさせていく、
こんな社会を、いつもどおりぶいぶいと動かしていてはいけません。

 


“そのために車が、バスが思うように進めなくなる、とまるこの瞬間・空間をどこまでも広げていきたいのです。
原発をとめ、死刑執行をとめ、入管による暴力をとめ、
天皇制が続くのをとめ、日の丸が掲げられるのをとめ、流れてくる君が代をとめ、
野宿者排除をとめ、排除の祭典であるオリンピックをとめ、
米軍基地建設をとめ、そもそも米軍基地の根拠ともなる日米安保体制をとめ、
朝鮮敵視政策をとめ、在日朝鮮人への差別政策をとめたいのです。
そして、みなさんの歩みをいったんとめて訴えを聞いて欲しいのです。”

 これは、とある活動家のことばです。
「交通のじゃまをすること」を、とても悪いこととして、できるだけ避けているうちに、
社会はどんどん差別の度合いを増しています。
そして「交通のじゃまをすること」を、とても悪いこととしながら、皇族や政府の「要人」が通る際の交通規制には
ものを言わないことを続けていたら、道路は為政者のものになってしまうじゃないですか。

道路は人民のものです。
人が通ったり、出会ったり、おしゃべりをしたり、何かを見たり見せたりするところです。

道路を取り戻しましょう。

 

*かんじ つかって いません*

 

みなさん、 はんにちわ ー

 

まいにち まいにち あきず に あつい です ね!

にっ ちゅう は できるだけ うごかず に、 すずしい へや で ごろん ごろん して いたい もの です ね。

という わけ で、 こんかい は よる でも に して みました。

ゆうやみ せまる さんじょう かわら に ぞくぞく と はんにち ひこくみん が あつまります。

よる だ から、 くらく て ぷらかーど とか みえない かも …?って しんぱい は むよう です。

よる の かわらまちどおり は、 わたしたち の よう な でもたい が つま づかない よう に でしょう か、 

みせ の あかり や どうろ しょうめい で、 ひるま の よう に あかるい です。

そんな なか を、 いつも の よう に ゆっくり と ふみしめる よう に あるいて いきます。

 

《すぴーち》

〜とおり を ごつうこう ちゅう の みなさん、 はんにちわ。 はんにち ひこくみん しゅうだん です。

 

あめりか がっしゅうこく なんぶ の ゔぁーじにあ しゅう、 しゃーろっつびる で はくじん しじょう しゅぎ を かかげる じんしゅ さべつ しゅぎしゃら による ぞうお せんどう、 ぞうお さつじん の えいぞう が れんじつ わたしたち ふくむ せかい へ と はっしん されて います。

みなさん は、 これ を どの よう に うけとめて いらっしゃるでしょう か?

 

なかには 「ざいとっかい」 の よう な にっぽん の はいがい しゅぎ だんたい を その すがた に かさねて みた かた も いるかも しれません。

たしか に、 にっぽん しゃかい における はいがい しゅぎ も また あめりか に ひけ を とらず はげしく あります。 「ざいとっかい」 の とうじょう を またず とも たとえば 90 ねんだい の ちょうせん がっこう に かよう じょ せいと の せいふく を きりさく 「ちまちょごり きりさき じけん」 が ひんぱつ しました。 2002 ねん の にっ ちょう かいだん で 「らち じけん」 が くろーずあっぷ され にっぽん の ちょうせん あくまか が さいこうちょう に たっして いこう、 ちょうせん がっこう せいと にたいする ぼうこう じけん、 がっこう へ の きょうはく でんわ など は いっそう はげしい もの と なりました。 ことし の 5 がつ に は なごや で ざいにち ちょうせんけい の しんようきんこ にたいする ほうか じけん まで おきて しまいました。 せんじつ この じけん にたいして なごや ちさい で はんけつ が くだされました。 ちょうえき 2 ねん、 しっこう ゆうよ 4 ねん だ そう です。

はくちゅう、 たくさん の りようしゃ が いて も おかしく なかった ぎんこう へ の ほうか にたいして ちょうえき 2 ねん、 それ も しっこう ゆうよつき という はんけつ を どう とらえて いい の か わたし に は ことば が ありません。

 

かんこく や ちゅうごく から の かんこう きゃく など にたいして さべつ はいがい しゅぎ を あらわ に にゅうてん ・ せっきゃく きょひ を する しょうてん や、 せっきゃく と しょうして いやがらせ こうい に およぶ じれい も すくなく ありません。

そして、 へいわ と じゆう を もとめる しゃかい うんどう において すら 「こくみん なめん な!」 といった わたしたち はんにち ひこくみん を ろこつ に はいじょ する ことば が えらばれ さけばれ つづけて いたり も します。

はいがい しゅぎ は それほど にっぽん しゃかい ぜんたい の すみずみ に まで まんえん して います。

それ は にっぽん せいふ という こっか けんりょく こそ が さべつ はいがい しゅぎ を せんどう ・ せんどう して きた から で は ないでしょう か。

 

2010ねん から つづく ちょうせん がっこう せいと にたいする むしょうか じょがい という さべつ にたいして、 せんげつ に おおさか ちさい で かっきてき な はんけつ が でました。 くに による ちょうせん がっこう へ の むしょうか てきよう じょがい について 「むしょうか ほう の しゅし を いつだつ して おり、 いほう、 むこう だ」 として てきよう を ぎむづけた の です。

さんけんぶんりつ など とっくに けいがいか して いると いって よい ほど にっぽん の さいばんしょ は こっか が あいて の さいばん で は まとも な はんけつ を かいた ためし が ほとんど ありません。 そんな なか で えられた しょうそ は とくべつ な いみ が あります。

はいがい しゅぎ を かくす こと も なく くに は こうそ を しました が、 いま すぐ さべつ を みとめて、 さかのぼって しきゅう を しろ!と みなさん も こえ を あげて ください。

くに が ちょうせん がっこう にたいする むしょうか じょがい を けってい して いらい、 そして、 さくねん に もんかしょう が ちょうせん がっこう にたいする ほじょきん しきゅう について 「つうたつ」 という あつりょく を くわえて から は さらに はくしゃ を かける よう に、 ちょうせん がっこう にたいする ほじょきん しきゅう を とうけつ する じちたい が ふえました。 くに が せんどう ・ せんどう する さべつ は こうして ちほう へ と かくだい して いき、 また、 めでぃあ や ぶんかじんら の むせきにん な へんけん ・ さべつ も たれながされ、 みんかん の へいとくらいむ へ と すべて つながって いる の です。

わたしたち は ちほう じちたい にたいして も くに の さべつ せいさく に なびく よう に ほじょきん しきゅう とうけつ など という さべつ を そっこく あらためて ざいにち ちょうせんじん の みんぞく きょういくけん を ほしょう する こと を つよく ようきゅう します。

 

そして、 この さべつ ・ はいがい しゅぎ を りよう しながら すすめられて いる ぐんじか に も わたしたち は あらがって いきます。

ざいにち ちょうせんじん にたいする かんみん とわず ふき あがる さべつ はいがい しゅぎ と ちょうせん てきし せいさく は いったい の もの であり、 ちょうせん を あくまか し 「かそう てき」 として その きょうい を あおる こと によって せいふ は せいどめん も ふくめて この しゃかい の ぐんじか を せいとうか して すすめて きました。 ひみつ ほごほう も、 せんそうほう も、 きょうぼうざい も みなそう です。

2006ねん いらい すでに 10 ねん いじょう も つづく ちょうせん せいさい に こっかい ぎいん の うち だれ ひとり として はんたい の こえ を あげた こと の ない じょうきょう を ふもん に した まま 「やとう きょうとう」 を さけぶ うんどう は あまりに こっけい です。

 

せんそう は さべつ を りよう します。 ひとびとを 「てき」 と 「みかた」 に わけ、 「てき こくみん」 として ちょうせんじん を はいじょ して きた し、 「こっか の あんぜん ほしょう」 の な の もと に おきなわ を べいぐん きちか して ぎせい を きょうよう して きました。

はいたてき かつ せんそう しゅたい として の 「こくみん こっか」 という しすてむ が しいてき に ひく きょうかいせん によって わたしたち の きほんてき な せい の じょうけん が いたる ところ で おびやかされて いる の です。

にっぽん で うまれそだった に も かかわらず りょうしん が おーばーすてい だ として きょうせい そうかん の きき に おびえる かぞく が います。

あんか な ろうどうりょく として さくしゅ して つかいすて に された あげく、 にゅうかん に らち かんきん されて いる ひとびと が います。 じびょう が あるに も かかわらず、 あるいは こうきん された せいかつ の なか で しんしん の けんこう が おびやかされて も まとも な いりょう を うけさせない ぎゃくたい じょうきょう が にゅうかん で は まかりとおって いる こと を しって ください。

そして こうぎ して ください。

 

そんな こくみん こっか の 「しょうちょう」 と される てんのう あきひと が せんしゅう 8 がつ 15 にち の ぜんこく せんぼつしゃ ついとうしき で 「かこ を かえりみ、 ふかい はんせい」 と のべた こと にたいして、 せんそう を あおる あべ せいけん と ひかく しながら、 あきひと を まるで へいわ しゅぎしゃ の よう に しょうさん する こえ が あります。 とんでも ない なんせんす です。

あきひと の ちち である てんのう ひろひと は しんりゃく ・ しょくみんち しはい、 たいりょう さつりく の さいこう せきにんしゃ であり ながら はいせんご も その せきにん を いっさい とる こと なく みずから の ほしん と ひきかえ に おきなわ を べいぐん きちか しました。

そんな ひろひと から てんのう の ちい を けいしょう した あきひと が その しょうがい を かけて なしとげよう と した こと は てんのう の しんりゃく せんそう ・ しょくみんち しはい せきにん を ひたすら いんぺい し、 てんのうせい という せんそう しゅたい として の こくみん とうごう きのう の そんぞく です。

あきひと が くち を ひらく たび に うわぬり される の は この にっぽん しゃかい の むせきにん の たいけい です。

 

むせきにん の たいけい、 にっぽんぐんせい どれいせい の ひがい じょせいたち にたいする にっぽん しゃかい の たいど は それ を もっとも よく あらわして いる よう に わたし に は みえます。

たい ちょうせん ぐんじ きょうりょく を もくろむ にっ かん せいふ による ひがいしゃ を かや の そと において なされた はれんち で なん の せいとうせい も ない 「にっ かん ごうい」 に あぐら を かき、 こうしき しゃざい と ほうてき ばいしょう、 しんそう きゅうめい、 きおく の けいしょう、 そして せきにんしゃ しょばつ を うったえる こえ にたいして しらん ふり、 はては ぎゃくぎれ を つづける かがいこく にっぽん の しみんたち ひとりひとり の なか に てんのうせい が いきづいて います。

 

てんのうせい と へいわ は きょうぞん ふかのう です。 てんのうせい は せんそう の ため に あります。 てんのうせい と は みぶんせい です。 てんのうせい と は さべつ の べつめい です。 わたしたち は ともに てんのうせい を つぶす こと を よびかけます!

 

 

 

なつ の よる は、 みなさん すこし かいほうてき に なる の でしょう か。

えんどう から は、 あきらか に どごう で は ない せいえん や、 しゅぷれひこーる を しょうわ する こえ も。

わたしたち の たいこ の りずむ に あわせて から だ を ゆらす ひと も みかけました。

 

 

《しゅぷれひこーる》

ひのまる を   やこう   やぶこう   おろそう よ

きみがよ を   ながす の やめろ   うたわん ぞ

てんのうせい   さべつ の こんげん   なくそう よ

「へいか」 とか  「さま」「さま」 つけるの   やめましょう

「こくみん」 に   とうごう される の   きょひ しよう

やすくに は   ぐんじ しせつ だ   つぶそう よ

にゅうかん は   さつじん しせつ だ   つぶそう よ

べいぐん の   おしつけ ゆるさん   おきなわ へ

べいぐん は   せかい の どこ に も   いらない ぞ

じえいたい   にほん の ぐんたい   なくそう よ

ちょうせん の   てきし を やめろ   いま すぐ に

こくせき で   ひと の いきかた   せばめるな

はいし しよう   さべつ を うみだす   こせき せいど

やめ に しよう   はいじょ の さいてん   おりんぴっく

 

 

 

しかし、 そんな わたしたち の こえ を、 きょうと ふけい の けいかんたち は、 

「まえ に すすんで!!!」(← すすんでるから ここ まで きてるが な …)

「(こうさてん を) わたりきって!!」(← ゆうてる ま に わたりおわるが な …)

「ひだり に よって ください!!」(← これ いじょう ひだり に よって ええ ん か …?)

「もう 8 じ に なります よ!!」(← だれ も じかん は きいて へん が な …)

とうとう、 ものすごい おおごえ で かきけそう と します。

「けいさつ、 うるさ ー い!」

けいさつ は、 なんと かして わたしたち の しゅちょう が ひとびと に つたわる の を じゃま したい の でしょう か。

という こと は、 もっと もっと わたしたち は えんどう に じっくり しっかり つたえて いかなく て は なりません ね。

わたしたち は、 えんどう の みなさん に つたえたい こと が あるから でも を して いる わけ で、 

けいさつ の どせい ばかり を きかせる きかい を わざわざ つくって いる わけ で は ありません。

 

けいさつ は   じゆう な でも を   じゃま するな!

 

さて さて、 そんな 「でも じゃま し たい」 の けいさつ、 なぜ か まいかい しじょう おおはし の あたり で ひーとあっぷ します。

けいさつ が おおごえ で でも を じゃま して くる もの だ から、 わたしたち が こうぎ を して いると、 

えんどう から 「こうつう の じゃま なんじゃ!」 という こえ。

けいさつ で は ない、 つうこうにん の ほう から の ごいけん でした。

 

ねえ みなさん、 

にっぽん に すむ ちょうせんじん の おんなのこ が、 すかーと を きられたり、 

ちょうせん に ゆかり の ある ぎんこう が ほうか されたり して いて、 

そんな さべつ を とめなく て は ならない はず の せいふ は、 ちょうせん がっこう を こうこう むしょうか から ふとう に じょがい してる ん です よ。

ほうむしょう にゅうかん は にっぽん に すみたい という がいこくじん を むきげん で とじこめ、 まんぞく な いりょう も あたえず ころしてる ん です よ。

しょうがいしゃ を なんにん も ざんさつ した うえ、 あべ しゅしょう に それ を てがら として ほうこく してる ひと が いる ん です よ。

せいふ と でんりょく かいしゃ は ちほう に げんしりょく はつでんしょ を おしつけ、 げんりょう の せいさん だんかい から ひばく ろうどう を まずしい ひと に おしつけ、 

いざ げんぱつ が じこ を おこしたら、 ひなん しよう と する ひと の せいかつ の ほしょう を しない どころか、 

おせん された ちいき に もどる こと を すいしょう する こと で、 その ちほう の ひとびと を ぶんだん して いる ん です よ

せいふ は、 そこ に すむ ひと が 「いや だ」 と いって いるのに、 ほう を やぶって まで、 うつくしい おきなわ に ぐんじ きち を つくって、 

また ひと を ころす だんどり を しよう と して いる ん です よ。

にっぽん の ぐんたい に だまされたり さらわれたり して、 せい どれい に された おんな の ひと を、 

いまだに うそつき よばわりする ひと が たくさん いる ん です よ。

にっぽん の ひと を なん びゃく まんにん も ころした うえ、 あじあ の ひと を なん ぜん まんにん も ころした ひと は、 

いま も あいかわらず 「てん のう」 って よばれて、 した に も おかない あつかい を うけてる ん です よ。

そんな とき に、 いつも どおり ぶいぶいと こうつう を うごかしてて いい ん です か?

さべつ、 はいがい を その しくみ に くみいれて、 すすめるほど に だれか を いき づらく させて いく、 

こんな しゃかい を、 いつも どおり ぶいぶいと うごかして いて は いけません。

 

“その ため に くるま が、 ばす が おもう よう に すすめなく なる、 とまる この しゅんかん ・ くうかん を どこ まで も ひろげて いきたい の です。

げんぱつ を とめ、 しけい しっこう を とめ、 にゅうかん による ぼうりょく を とめ、 

てんのうせい が つづく の を とめ、 ひのまる が かかげられる の を とめ、 ながれて くる きみがよ を とめ、 

のじゅくしゃ はいじょ を とめ、 はいじょ の さいてん である おりんぴっく を とめ、 

べいぐん きち けんせつ を とめ、 そもそも べいぐん きち の こんきょ と も なる にち べい あんぽ たいせい を とめ、 

ちょうせん てきし せいさく を とめ、 ざいにち ちょうせんじん へ の さべつ せいさく を とめたい の です。

そして、 みなさん の あゆみ を いったん とめて うったえ を きいて ほしい の です。 ”

 

 

これ は、 とある かつどうか の ことば です。

「こうつう の じゃま を する こと」 を、 とても わるい こと として、 できるだけ さけて いる うち に、 

しゃかい は どんどん さべつ の どあい を まして います。

そして 「こうつう の じゃま を する こと」 を、 とても わるい こと と しながら、 こうぞく や せいふ の 「ようじん」 が とおる さい の こうつう きせい に は

もの を いわない こと を つづけて いたら、 どうろ は いせいしゃ の もの に なって しまうじゃ ないです か。

 

どうろ は じんみん の もの です。

ひと が かよったり、 であったり、 おしゃべり を したり、 なにか を みたり みせたり する ところ です。

 

どうろ を とりもどしましょう。

7月22日 反天皇@御所 * 7がつ 22にち はんてんのう あっと ごしょ

** ふたつめ は かんじ つかって いません **

 

みなさん、ごきげんよう、そしてはんにちわ。

 

先月、ささやかながら共謀祭を催した私たちですが、その際に色んなこれからやりたい企てが出ました。

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2017/07/10/113157

 

ということで、そのなかでも人気の高かった京都御所で(正確には御所を囲む御苑ですが)天皇制反対の集いを7月22日に催しました♪

 

こんな様子。

 

f:id:kotokotonittei:20170723212423j:plain

 

反日・反天皇メッセージとこの日のために書き下ろして収録した4曲(「ハッハ反日」「ラップ」「コミュ」「天皇三世代」どれも名曲)を流しながら穏やかに、猛暑に晒されつつ語らいあっていたら、1時間ほど過ぎてでしょうか通りかかった管理者がこちらをジロジロ見て何やら電話を。

 

はい、警察がやってきました! 

 

まず御所専用の皇宮警察3名がやってきて、後から応援にと京都府警上京署からさらに3名やってきて、さらに所属不明の私服警官3名もやってきました。

 

f:id:kotokotonittei:20170723212751j:plain

皇宮警察のパトカーは黒です。

 

f:id:kotokotonittei:20170723212854j:plain

皇宮警察と助っ人でやってきた上京署の警察たち

 

f:id:kotokotonittei:20170723212932j:plain

私服警官も参上

 

まず皇宮警察に言われたことは、このようにバナーとか広げて集うには許可がいるということ。

 

しかし、私たちは事前に京都御苑について調べていたのでそんな事実はないということ、またここでプラカやバナーを広げることが管理者にとって面白くなくとも警察が介入することではないということ(民事不介入)を一通り伝えると、なんやら私たちを放っておいて長々と相談し始める警察たち。

 

結局、管理者との間で拡声器の使用についてだけ話し合い管理者のほうは納得して帰っていきました。プラカードやバナーは一切問題になっていません。

 

つまり、最初の許可がいるというのはやはり真っ赤な嘘だったわけです。

 

警察は平気で嘘をつきます。

大事なことなのでもう一回。

警察は平気で嘘をつきます。

 

そこで皇宮警察は去りましたが上京署の警察たちと私服はまだその場に残ってなんやらアレコレ話し合う。

で、私たちのほうにやってきて職質をしてきました。

 

まず「日本人」かと訊かれました。

 

なんか、もう、さすがですね…さすがレイシズム大国ニッポン。「日本スゴイ!」ってやつです。

 

あとは団体名とか、この集いの目的とか…

 

もちろん、任意なのだから応じる気はないと回答拒否です。

上京署と私服もこれ以上はなにもできないので帰りました。

 

興味深かったのは、私たちのようにこの御苑で天皇制反対のメッセージを掲げて座り込んでるみたいな存在が前例のない初めての経験ということで上京署としても対応方針をはかりかねていたことでした。

 

ずーっと前からこんなに無駄にだだっ広い土地が用意されているのに、なんと前例がなかったらしいのです!

確かに私たちも今回が初であり、これを思いついたとき「なんで今までやらなかったんだろう」と思ったものでしたが…

 

そのことは天皇制が暴力によって維持されてきたことを物語るようです。

 

猛暑日でもあったので人の行き交いは寂しかったかもしれませんが、明仁上皇になったら京都御所で暮らすかもなんて話もあるので、今のうちから「ウェルカムされてると思うなよ!」「来たらいつもすぐそばで抗議やってやるからな!」という意思表示として初の試みですがやっておいてよかったです。

こういう前例を作って続けていくことは大事なんじゃないかなと思います。

 

てーーーーんーーーNO!!!

 

** かんじ つかって いません **

 

みなさん、 ごきげんよう、 そして はんにちわ。

せんげつ、 ささやか ながら きょうぼうさい を もよおした わたしたち です が、 その さい に いろんな これから やりたい くわだて が でました。
http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2017/07/10/113157

という こと で、 その なか でも にんき の たかかっ た きょうと ごしょ で (せいかく に は ごしょ を かこむ ぎょえん です が) てんのうせい はんたい の つどい を 7 がつ 22 にち に もよおしました ♪

こんな ようす。

 

f:id:kotokotonittei:20170723212423j:plain

 

はんにち ・ はんてんのう めっせーじ と この ひ の ため に かきおろして しゅうろく した 4 きょく (「はっは はんにち」「らっぷ」「こみゅ」「てんのう さん せだい」 どれ も めいきょく) を ながしながら おだやか に、 もうしょ に さらされつつ かたらいあって いたら、 1 じかん ほど すぎて でしょう か とおりかかった かんりしゃ が こちら を じろじろ みて なにやら でんわ を。

 

はい、 けいさつ が やってきました!

 

まず ごしょ せんよう の こうぐうけいさつ 3 めい が やってきて、 ご から おうえん に と きょうと ふけい かみぎょうしょ から さらに 3 めい やってきて、 さらに しょぞく ふめい の しふく けいかん 3 めい も やってきました。

 

f:id:kotokotonittei:20170723212751j:plain

こうぐう けいさつ の ぱとかー は くろ です。

 

f:id:kotokotonittei:20170723212854j:plain

こうぐう けいさつ と すけっと で やってきた かみぎょうしょ の けいさつたち

 

f:id:kotokotonittei:20170723212932j:plain

しふく けいかん も さんじょう

 

まず こうぐう けいさつ に いわれた こと は、 この よう に ばなー とか ひろげて つどうに は きょか が いるという こと。

しかし、 わたしたち は じぜん に きょうと ぎょえん について しらべて いた ので そんな じじつ は ない という こと、 また ここ で ぷらか や ばなー を ひろげる こと が かんりしゃ にとって おもしろく なく とも けいさつ が かいにゅう する こと で は ない という こと (みんじ ふかいにゅう) を ひととおり つたえると、 なん やら わたしたち を ほうって おいて ながなが と そうだん しはじめる けいさつたち。

けっきょく、 かんりしゃ と の あいだ で かくせいき の しよう について だけ はなしあい かんりしゃ の ほう は なっとく して かえって いきました。 ぷらかーど や ばなー は いっさい もんだい に なって いません。

つまり、 さいしょ の きょか が いると いう の は やはり まっか な うそ だった わけ です。

けいさつ は へいき で うそ を つきます。
だいじ な こと な ので もう いっかい。
けいさつ は へいき で うそ を つきます。

そこで こうぐう けいさつ は さりました が かみぎょうしょ の けいさつたち と しふく は まだ その ば に のこって なん やら あれこれ はなしあう。
で、 わたしたち の ほう に やってきて しょくしつ を して きました。

まず 「にっぽんじん」 か と きかれました。

なんか、 もう、 さすが です ね … さすが れいしずむ たいこく にっぽん。 「にっぽん すごい!」 って やつ です。

あと は だんたいめい とか、 この つどい の もくてき とか …

もちろん、 にんい な の だ から おうじる き は ない と かいとう きょひ です。

かみぎょうしょ と しふく も これ いじょう は なに も できない ので かえりました。

きょうみ ぶかかっ た の は、 わたしたち の よう に この ぎょえん で てんのうせい はんたい の めっせーじ を かかげて すわりこんでる みたい な そんざい が ぜんれい の ない はじめて の けいけん という こと で かみぎょうしょ として も たいおう ほうしん を はかりかねて いた こと でした。

ずーっと まえ から こんなに むだ に だだっぴろい とち が ようい されて いるのに、 なんと ぜんれい が なかっ たらしい の です!
たしか に わたしたち も こんかい が はつ であり、 これ を おもいついた とき 「なんで いま まで やらなかった ん だろう」 と おもった もの でした が …

その こと は てんのうせい が ぼうりょく によって いじ されて きた こと を ものがたる よう です。

もうしょび で も あった ので ひと の いきかいは さびしかっ た かも しれません が、 あきひと が じょうこう に なったら きょうと ごしょ で くらす かも なんて はなし も あるので、 いま の うち から 「うぇるかむ されてると おもうな よ!」「きたら いつも すぐ そば で こうぎ やって やるから な!」 という いし ひょうじ として はつ の こころみ です が やって おいて よかっ たです。
こういう ぜんれい を つくって つづけて いく こと は だいじ な ん じゃ ない か な と おもいます。

て ーーーー ん ーーー NO!!!

6月24日 共謀祭 * 6がつ 24にち きょうぼうさい

** ふたつめ は かんじ つかって いません **
 
みなさんはんにちわ~
さて、去る6月15日の強行採決をへて、もう21日には「共謀罪」法が公布されてしまいました。
現状、なにをやっても(やっていなくても)自分たちの思いどおりにひとを拘束したり、痛めつけたりする警察(とそれらに命令する権力)ですが、
共謀罪」ができてしまうと、あなたとわたしがSNSで交わしたおしゃべりをもとに、罪に問われてしまうことになるやもしれません。そりゃもう権力やりたい放題です。
「そんなぶっそうなこと言ったりせえへんから大丈夫やわ」
「つかまるのは「日の丸おろせー!」とか「君が代流すなー」とか言ってる反日非国民だけやろ」
「ぶっそうなこと」ってどんなこと?「反日非国民」ってどんなひとたち?
何がぶっそうで何がぶっそうでないか、あなたが反日非国民か反日非国民でないかは、あなたを捕まえたいと思っている人たちには
実はどうでもいいことです。その人らが、なんらかの理由があってあなたを捕まえたい、拘束したいと思ったとき、そのときあなたの言動は、捕まえる人にとって
「社会の秩序を乱す可能性のあるわるい行動」になります。これといって行動していなければ、「わるいことをたくらんでいる」として、捕まえます。これが「共謀罪」です。
 
内心の自由を侵し、表現の自由を狭め、権力にさらに力を与えてしまう「共謀罪」。
こんなものの存在を、ゆるすわけにはいけません。
そして「共謀罪」は、「成立するかもよ」「採決したよ」「施行するよ」の段階から、誰かの表現を、告発を、萎縮させる効果を持っています。
これこそが、まだ適用されてもいない「共謀罪のおそろしいところです。
だから、萎縮しないで、どんどん共謀しましょう。
3人寄れば共謀。休みの前には共謀。仕事を終えたら共謀。お金が入れば共謀。肩がこったら共謀。ニキビつぶして共謀。
夏になったら共謀。雪が降ったら共謀。西へ行ったら共謀。東に行っても共謀。
充電できたら共謀。Wi-Fiつかんで共謀。電波なくても共謀。雨があがったら共謀。
 
ということで、公布直後の6月24日、某所でささやかな「共謀祭」をもよおしました。
祭りといっても笛やたいこ、酒やおでんや押し寿司はありません。
しかし、わたしたちにはおのおのたくさんの「はかりごと」があります。
それらを持ち寄って、共謀しました。
 

f:id:kotokotonittei:20170710112552j:plain

f:id:kotokotonittei:20170624143959j:plain

f:id:kotokotonittei:20170624144021j:plain

《画像:はかりごとのかずかず》
 
御所(京都御所)、大人気ですね。
ほか、泊まり込みや展示など、いろんなはかりごとが出てきました。
参加したメンバーが最近気になっていることなどもシェアして、やっぱり天皇制ダメだよね、って。
どれからやるか、どれもやるか、それはまた今後ということで。
 
みなさん、共謀しましょう!
 
** かんじ つかって いません **
 
みなさん はん に ちわ ~
さて、 さる 6 がつ 15 にち の きょうこう さいけつ を へて、 もう 21 にち に は 「きょうぼうざい」 ほう が こうふ されて しまいました。
げんじょう、 なに を やって も (やって いなく て も) じぶんたち の おもい どおり に ひと を こうそく したり、 いため つけたり する けいさつ (と それら に めいれい する けんりょく) です が、 
「きょうぼうざい」 が できて しまうと、 あなた と わたし が SNS (えす えぬ えす) で かわした おしゃべり を もと に、 つみ に とわれて しまう こと に なるや も しれません。 そりゃ もう けんりょく やりたい ほうだい です。
「そんな ぶっそう な こと いったり せ え へん から だいじょうぶ や わ」
「つかまる の は 「ひのまる おろせ ー!」 とか 「きみがよ ながすなー」 とか いってる はんにち ひこくみん だけ やろ」
「ぶっそう な こと」 って どんな こと?「はんにち ひこくみん」 って どんな ひとたち?
なに が ぶっそう で なに が ぶっそう でない か、 あなた が はんにち ひこくみん か はんにち ひこくみん でない か は、 あなた を つかまえたい と おもって いる ひとたち に は
じつは どう でも いい こと です。 その ひとら が、 なんらかの りゆう が あって あなた を つかまえたい、 こうそく したい と おもった とき、 その とき あなた の げんどう は、 つかまえる ひと にとって
「しゃかい の ちつじょ を みだす かのうせい の ある わるい こうどう」 に なります。 これ と いって こうどう して いなけれ ば、 「わるい こと を たくらんで いる」 として、 つかまえます。 これ が 「きょうぼうざい」 です。

ないしん の じゆう を おかし、 ひょうげん の じゆう を せばめ、 けんりょく に さらに ちから を あたえて しまう 「きょうぼうざい」。
こんな もの の そんざい を、 ゆるす わけ に は いけません。
そして 「きょうぼうざい」 は、 「せいりつ するかも よ」「さいけつ した よ」「しこう するよ」 の だんかい から、 だれか の ひょうげん を、 こくはつ を、 いしゅく させる こうか を もって います。
これ こそ が、 まだ てきよう されて も いない 「きょうぼうざい」 の おそろしい ところ です。
だから、 いしゅく しない で、 どんどん きょうぼう しましょう。
3にん よれば きょうぼう。 やすみ の まえ に は きょうぼう。 しごと を おえたら きょうぼう。 おかね が はいれば きょうぼう。 かた が こったら きょうぼう。 にきび つぶして きょうぼう。
なつ に なったら きょうぼう。 ゆき が ふったら きょうぼう。 にし へ いったら きょうぼう。 ひがし に いって も きょうぼう。
じゅうでん できたら きょうぼう。 Wi-Fi(わい ふぁい) つかんで きょうぼう。 でんぱ なく て も きょうぼう。 あめ が あがったら きょうぼう。

という こと で、 こうふ ちょくご の 6 がつ 24 にち、 ぼうしょ で ささやか な 「きょうぼうさい」 を もよおしました。
まつり と いって も ふえ や たいこ、 さけ や おでん や おしずし は ありません。
しかし、 わたしたち に は おのおの たくさん の 「はかりごと」 が あります。
それら を もちよって、 きょうぼう しました。

f:id:kotokotonittei:20170710112552j:plain

f:id:kotokotonittei:20170624143959j:plain

f:id:kotokotonittei:20170624144021j:plain

《がぞう : はかりごと の かずかず》

ごしょ (きょうと ごしょ)、 だいにんき です ね。
ほか、 とまりこみ や てんじ など、 いろんな はかりごと が でて きました。
さんか した めんばー が さいきん き に なって いる こと など も しぇあ して、 やっぱり てんのうせい だめ だ よ ね、 って。
どれ から やるか、 どれ も やるか、 それ は また こんご という こと で。

みなさん、 きょうぼう しましょう!

5月28日デモ報告*5がつ28にち でも ほうこく

**ふたつめ は かんじ つかって いません**

 

はんにちわー。

528日(日)、この日の京都市は快晴の青空の下というデモ日和でしたので、10数人という大人数でまた繁華街を1時間かけてじっくりデモしました。

今回は序盤から警察が「はやく進みなさい!」「左に寄って!」とかなりガミガミうるさい!

私たちの耳元で叫んできたり、触ったりしてきてとてもとてもうっとうしいものでした。

そんなことされれば当然みんなで「自由なデモの邪魔をするな!」といつものように抗議です。

 

そんなときです。私たちのデモにむかって正面からドンドンと突き進んでいくひとがいるではないですか!おや?もしかして嬉しい飛び入り参加かしらと胸がおどるのもつかの間、わざと体当たりをされました!

この暴行に対して私たちは「何をするんだ!」と当然怒りますが、「迷惑なんじゃ!」と吐き捨てまた沿道に逃げていこうとします。

警察はデモに誘われていないにも関わらずいつも勝手についてきますが、百歩譲ってそれに少しでも根拠を与えるとするならば、まさにこんなふうに暴力をふるってくるものを抑えるためのはずです。

しかし、警察は暴力をふるってきたものを取り締まるどころか、あろうことか、暴力をふるった側に対して謝っていたのです!!!

今さら驚くようなことではないかもしれません。これまでも警察は右翼による暴力は恣意的に見逃して我々のような反日非国民に対しては非暴力の運動であっても弾圧してきたのですから。

しかし、だからといって到底許せることではありません。その場で参加者みなで「あいつを放っておいてデモを進めろとおかしいだろ!」「何のためにいるんだ!」と猛抗議です。

暴漢が離れても抗議を続ける私たちに警察は譲歩のつもりなのか「早く進みなさい!」から「ゆっくりでいいから進んでください」に変わりました(笑)。

ちっとも許してないですけどね。下京署には次の機会にはあらためて抗議したいと思います。

 

今回のスピーチもしっかりとがっていて熱のこもった力作です。当日、スピーチしながら自分で思わずめっちゃええこと言うやんって感動してました(笑)

そして恒例の5・7・5の俳句スタイルのシュプレヒコールデモが八坂神社に近づくと日の丸掲げる神社に向けて今回も怒涛の「日の丸を 焼こう 破こう 降ろそうよ!」コールラッシュでした。

ぜひ読んでください。

 

 

(スピーチ)

 

〜通りをご通行中のみなさん、こんにちわ。

これまで私たちは何度も繰り返しこうやってデモをしては毎回のように天皇制への反対を訴えたり、「日の丸を焼こう・破こう・折ろそうよ」と叫んだり、他にも殺人施設である入国管理局を潰すこと、あるいは日米安保体制を終わらせ米軍基地をなくし自衛隊という日本軍も解体すること、そして10年以上も続く朝鮮敵視政策をやめ植民地支配・侵略戦争責任を果たすこと等々を訴えてきました。

 

こんな私たちを反日非国民と呼ぶ人もいます。

その通り!正解です。

反日非国民なんです、私たち。

 

戦前の大日本帝国からちっともかわらない日本国なんか反対されて当然のものだし、外に向けては排外的で内に向けては国家のために殺し・死ぬという戦争主体として統合される「国民」だなんてまっぴらごめんです。

 

反日非国民の私たちは当然、共謀罪にも大反対です。これはひとの内心にまで立ち入って捜査対象とし、逮捕しようとするとんでもない弾圧法です。この共謀罪について政府はテロ対策が必要だからと言っていましたが、しかしここで言われる「テロ」とはなんでしょう?「テロリスト」とは誰のことでしょう?

 

安倍内閣が秘密法を成立させようとしていた当時、自民党幹事長であった石破茂は秘密法に反対するデモを「テロ行為」と呼びました。

その秘密法や戦争法と並んで、戦争にむけての弾圧法である共謀罪をまたもや強引に成立させようとするなかで、これに反対を叫びデモをする私たちは日本国にとって「テロリスト」でもあるかもしれません。

 

ということで街のみなさん、改めましてはんにちわ!

反日非国民の「テロリスト」集団です。

 

今日もこうやって必死に叫ぶ私たちのせいで車が思うように通れない、バスが遅れてしまう、ということもあるでしょう。

 

まぁ、私たちのデモという「テロ行為」ではせいぜいその程度の「迷惑」をかけるくらいしかできない、とも言えます。

だって本当は「テロリスト」の名に恥じないようもっともっと大きな「迷惑」をかけたいんですから。車やバスだけでなく、もっとたくさんのものをとめたい。この流れをとめたいんです。

 

なぜか。

 

1つに、アメリカとともに世界にまたがって戦争に参加し収奪と殺戮に加担する本当の意味においてテロ国家である日本社会をとめたいから。

 

2つに、朝鮮敵視政策によりいたずらに東アジアの緊張を高め、朝鮮人差別をはじめとした排外主義が蔓延る日本社会をとめたいから。

つい先日には名古屋で旧朝銀中部信用組合であるイオ信用組合に対して放火するというヘイトクライムが起きました。日本軍性奴隷制をめぐる問題で韓国に悪い感情を持っていたというのが理由とされています。

こんな日本社会をとめなければならない。

 

3つに、これまでもずっと被爆労働という犠牲を強いながら動かしてきた原発を、福島原発事故がいまだに収束していないにも関わらず、そして被災者・避難者への補償も不十分なまま、さらにまだまだ出続ける避難移住を保障する権利を訴える声を無視して川内、伊方に続いて517日に高浜原発を再稼働させた日本社会をとめたいから。

 

そして4つに、外国人居住者に対して都合の良いように使い捨ての労働力として搾取の限りを尽くし、用済みになれば拉致・拘禁し、暴力的に強制送還してきた法務省入国管理局を擁する日本社会をとめたいから。

不当にも滞在資格が与えられていない外国人居住者のうち入国管理局に収容されている人たちは、無期限の拘禁状態に置かれ、病気になっても適切な医療を受けることもできず、職員による威嚇、恐喝、暴力に晒され続けてきています。この虐待状況に対して東京入管に収容されている外国人居住者たちは最近まで二週間にもわたりハンガーストライキをもって待遇改善を訴えていました。最大70名が参加した生命をかけた抗議要望に対して東京入管はついに要望書を受け取ることすらせず今も状況はなにも改善されていません。

入管のなかで起きている虐待、殺人はほとんど報道されることもありません。どうか関心を持ち入管に抗議の声を届けてください。

 

他にもたくさんの理由があります。

 

そのために車が、バスが思うように進めなくなる、とまるこの瞬間・空間をどこまでも広げていきたいのです。

原発をとめ、死刑執行をとめ、入管による暴力をとめ、天皇制が続くのをとめ、日の丸が掲げられるのをとめ、流れてくる君が代をとめ、野宿者排除をとめ、排除の祭典であるオリンピックをとめ、米軍基地建設をとめ、そもそも米軍基地の根拠ともなる日米安保体制をとめ、朝鮮敵視政策をとめ、在日朝鮮人への差別政策をとめたいのです。

そして、みなさんの歩みをいったんとめて訴えを聞いて欲しいのです。

 

そのために私たちはこれからもどんどん共謀していきます。

沿道の皆さん、どうぞ共謀して私たちと一緒に歩きましょう!

 

シュプレヒコール

日の丸を 焼こう 破こう 降ろそうよ

君が代を 流すのやめろ 歌わんぞ

天皇制 差別の根源 なくそうよ

「陛下」とか 「様」「様」つけるの やめましょう

「国民」に 統合されるの 拒否しよう

ヤスクニは 軍事施設だ つぶそうよ

入管は 殺人施設だ つぶそうよ

米軍の 押しつけゆるさん 沖縄へ

米軍は 世界のどこにも いらないぞ

自衛隊 日本の軍隊 なくそうよ

朝鮮の 敵視をやめろ いますぐに

国籍で ひとの生き方 せばめるな

廃止しよう 差別を生み出す 戸籍制度

やめにしよう 排除の祭典 オリンピック

 

 

**かんじ つかって いません**

 

はん に ちわ ー。
5つき 28 ひ (ひ)、 この ひ の きょうとし は かいせい の あおぞら の もと という でも ひより でした ので、 10 すうにん という だいにんずう で また はんかがい を 1 じかん かけて じっくり でも しました。
こんかい は じょばん から けいさつ が 「はやく すすみなさい!」「ひだり に よって!」 と かなり がみがみ うるさい!
わたしたち の みみもと で さけんで きたり、 さわったり して きて とても とても うっとうしい もの でした。
そんな こと されれば とうぜん みんな で 「じゆう な でも の じゃま を するな!」 と いつも の よう に こうぎ です。

そんな とき です。 わたしたち の でも に むかって しょうめん から どんどん と つきすすんで いく ひと が いるで は ないです か!おや?もしかして うれしい とびいり さんか かしら と むね が おどる の も つかのま、 わざと からだ あたり を されました!
この ぼうこう にたいして わたしたち は 「なに を する ん だ!」 と とうぜん おこります が、 「めいわく な んじゃ!」 と はきすて また えんどう に にげて いこう と します。
けいさつ は でも に さそわれて いない に も かかわらず いつも かって に ついて きます が、 ひゃくほ ゆずって それ に すこし でも こんきょ を あたえると するなら ば、 まさに こんな ふう に ぼうりょく を ふるって くる もの を おさえる ため の はず です。
しかし、 けいさつ は ぼうりょく を ふるって きた もの を とりしまるどころか、 あろう こと か、 ぼうりょく を ふるったがわ にたいして あやまって いた の です!!!
いまさら おどろく よう な こと で は ない かも しれません。 これ まで も けいさつ は うよく による ぼうりょく は しいてき に みのがして われわれ の よう な はんにち ひこくみん にたいして は ひぼうりょく の うんどう であっ て も だんあつ して きた の です から。
しかし、 だからといって とうてい ゆるせる こと で は ありません。 その ば で さんかしゃ みな で 「あいつ を はなって おいて でも を すすめろと おかしいだろ!」「なに の ため に いる ん だ!」 と もうこうぎ です。
ぼうかん が はなれて も こうぎ を つづける わたしたち に けいさつ は じょうほ の つもり な の か 「はやく すすみなさい!」 から 「ゆっくり で いい から すすんで ください」 に かわりました (えみ)。
ちっとも ゆるしてないです けど ね。 しもぎょうしょ に は つぎ の きかい に は あらためて こうぎ したい と おもいます。

こんかい の すぴーち も しっかり とがって いて ねつ の こもった りきさく です。 とうじつ、 すぴーち しながら じぶん で おもわず めっちゃ ええ こと いうやん って かんどう して ました (えみ)
そして こうれい の 5 ・ 7 ・ 5 の はいく すたいる の しゅぷれひこーる。 でも が やさかじんじゃ に ちかづくと ひのまる かかげる じんじゃ に むけて こんかい も どとう の 「ひのまる を   やこう   やぶこう   おろそう よ!」 こーる らっしゅ でした。
ぜひ よんで ください。

(すぴーち)

〜とおり を ごつうこうちゅう の みなさん、 こんにちわ。
これ まで わたしたち は なんど も くりかえし こう やって でも を して は まいかい の よう に てんのうせい へ の はんたい を うったえたり、 「ひのまる を やこう ・ やぶこう ・ おろ そう よ」 と さけんだり、 た に も さつじん しせつ である にゅうこく かんりきょく を つぶす こと、 あるいは にち べい あんぽ たいせい を おわらせ べいぐん きち を なくし じえいたい という にっぽんぐん も かいたい する こと、 そして 10 とし いじょう も つづく ちょうせん てきし せいさく を やめ しょくみんち しはい ・ しんりゃく せんそう せきにん を はたす こと とうとう を うったえて きました。

こんな わたしたち を はんにち ひこくみん と よぶ ひと も います。
その とおり!せいかい です。
はんにち ひこくみん な ん です、 わたしたち。

せんぜん の だいにっぽんていこく から ちっとも かわらない ひ ほんごく なんか はんたい されて とうぜん の もの だ し、 そと に むけて は はいがいてき で うち に むけて は こっか の ため に ころし ・ しぬという せんそう しゅたい として とうごう される 「こくみん」 だ なんて まっぴら ごめん です。

はんにち ひこくみん の わたしたち は とうぜん、 きょうぼうざい に も だいはんたい です。 これ は ひと の ないしん に まで たちいって そうさ たいしょう と し、 たいほ しよう と する とんでも ない だんあつほう です。 この きょうぼうざい について せいふ は てろ たいさく が ひつよう だ から と いって いました が、 しかし ここ で いわれる 「てろ」 と は なん でしょう?「てろりすと」 と は だれ の こと でしょう?

あべ ないかく が ひみつほう を せいりつ させよう と して いた とうじ、 じみんとう かんじちょう であった いしば しげる は ひみつほう に はんたい する でも を 「てろ こうい」 と よびました。
その ひみつほう や せんそうほう と ならんで、 せんそう に むけて の だんあつほう である きょうぼうざい を またもや ごういん に せいりつ させよう と する なか で、 これ に はんたい を さけび でも を する わたしたち は にっぽんこく にとって 「てろりすと」 でも あるかも しれません。

という こと で まち の みなさん、 あらためまし てはん に ちわ!
はんにち ひこくみん の 「てろりすと」 しゅうだん です。

きょう も こう やって ひっし に さけぶ わたしたち の せい で くるま が おもう よう に とおれない、 ばす が おくれて しまう、 という こと も あるでしょう。

まぁ、 わたしたち の でも という 「てろ こうい」 では せいぜい その ていど の 「めいわく」 を かけるくらい しか できない、 と も いえます。
だって ほんとうは 「てろりすと」 の な に はじない よう もっと もっと おおきな 「めいわく」 を かけたい ん です から。 くるま や ばす だけ でなく、 もっと たくさん の もの を とめたい。 この ながれ を とめたい ん です。

なぜ か。

1つ に、 あめりか とともに せかい に またがって せんそう に さんか し しゅうだつ と さつりく に かたん する ほんとう の いみ において てろ こっか である にっぽん しゃかい を とめたい から。

2つ に、 ちょうせん てきし せいさく により いたずら に ひがしあじあ の きんちょう を たかめ、 ちょうせんじん さべつ を はじめ と した はいがい しゅぎ が はびこる にっぽん しゃかい を とめたい から。
つい せんじつ に は なごや で きゅうあさ ぎん ちゅうぶ しんようくみあい である いお しんようくみあい にたいして ほうか するという へいとくらいむ が おきました。 にっぽんぐんせい どれいせい を めぐる もんだい で かんこく に わるい かんじょう を もって いた という の が りゆう と されて います。
こんな にっぽん しゃかい を とめなけれ ば ならない。

3つ に、 これ まで も ずっと ひばく ろうどう という ぎせい を つよい ながら うごかして きた げんぱつ を、 ふくしま げんぱつ じこ が いまだに しゅうそく して いない に も かかわらず、 そして ひさいしゃ ・ ひなんしゃ へ の ほしょう も ふじゅうぶん な まま、 さらに まだまだ でつづける ひなん いじゅう を ほしょう する けんり を うったえる こえ を むし して せんだい、 いかた に つづいて 5 つき 17 ひ に たかはまげんぱつ を さいかどう させた にっぽん しゃかい を とめたい から。

そして 4 つ に、 がいこくじん きょじゅうしゃ にたいして つごう の よい よう に つかいすて の ろうどうりょく として さくしゅ の かぎり を つくし、 ようずみ に なれば らち ・ こうきん し、 ぼうりょくてき に きょうせい そうかん して きた ほうむしょう にゅうこく かんりきょく を ようする にっぽん しゃかい を とめたい から。
ふとう に も たいざい しかく が あたえられて いない がいこくじん きょじゅうしゃ の うち にゅうこく かんりきょく に しゅうよう されて いる ひとたち は、 むきげん の こうきん じょうたい に おかれ、 びょうき に なって も てきせつ な いりょう を うける こと も できず、 しょくいん による いかく、 きょうかつ、 ぼうりょく に さらされつづけて きて います。 この ぎゃくたい じょうきょう にたいして とうきょう にゅうかん に しゅうよう されて いる がいこくじん きょじゅうしゃたち は さいきん まで にしゅうかん に も わたり はんがーすとらいき を もって たいぐう かいぜん を うったえて いました。 さいだい 70 な が さんか した せいめい を かけた こうぎ ようぼう にたいして とうきょう にゅうかん は ついに ようぼうしょ を うけとる こと すら せず いま も じょうきょう は なに も かいぜん されて いません。
にゅうかん の なか で おきて いる ぎゃくたい、 さつじん は ほとんど ほうどう される こと も ありません。 どうか かんしん を もち にゅうかん に こうぎ の こえ を とどけて ください。

た に も たくさん の りゆう が あります。

その ため に くるま が、 ばす が おもう よう に すすめなく なる、 とまる この しゅんかん ・ くうかん を どこ まで も ひろげて いきたい の です。
げんぱつ を とめ、 しけい しっこう を とめ、 にゅうかん による ぼうりょく を とめ、 てんのうせい が つづく の を とめ、 ひのまる が かかげられる の を とめ、 ながれて くる きみがよ を とめ、 のじゅくしゃ はいじょ を とめ、 はいじょ の さいてん である おりんぴっく を とめ、 べいぐん きち けんせつ を とめ、 そもそも べいぐん きち の こんきょ と も なる にち べい あんぽ たいせい を とめ、 ちょうせん てきし せいさく を とめ、 ざいにち ちょうせんじん へ の さべつ せいさく を とめたい の です。
そして、 みなさん の あゆみ を いったん とめて うったえ を きいて ほしい の です。

その ため に わたしたち は これから も どんどん きょうぼう して いきます。
えんどう の みなさん、 どうぞ きょうぼう して わたしたち と いっしょ に あるきましょう!

(しゅぷれひこーる)
ひのまる を   やこう   やぶこう   おろそう よ
きみがよ を   ながす の やめろ   うたわん ぞ
てんのうせい   さべつ の こんげん   なくそう よ
「へいか」 とか  「よう」「よう」 つけるの   やめましょう
「こくみん」 に   とうごう される の   きょひ しよう
やす くに は   ぐんじ しせつ だ   つぶそう よ
にゅうかん は   さつじん しせつ だ   つぶそう よ
べいぐん の   おしつけ ゆるさん   おきなわ へ
べいぐん は   せかい の どこ に も   いらない ぞ
じえいたい   にっぽん の ぐんたい   なくそう よ
ちょうせん の   てきし を やめろ   いま すぐ に
こくせき で   ひと の いきかた   せばめるな
はいし しよう   さべつ を うみだす   こせき せいど
やめ に しよう   はいじょ の さいてん   おりんぴっく