弾圧(だんあつ)なんかに屈して(くっして)たまるかぁ!弾圧(だんあつ)と差別(さべつ)に抗う(あらがう)ことは戦争(せんそう)に抗う(あらがう)ことでもある!


***ふたつめは、かんじなし***

お久しぶりです。6月20日に毎月定例のデモをしました。今回は近頃の弾圧の激しさに負けてたまるかという思いを込めて京都市の繁華街をゆっくり1時間かけてデモしました。

以下は当日のスピーチとシュプレヒコールです(時間がなくて当日にうぁーっと作ったので足らないところあるかもです…って言い訳)。

 

(スピーチ)

みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

警察・検察の横暴が目立つ今日この頃でございます。

先月に経産省前に原発反対を訴えるためにいた市民に対する不当逮捕、家宅捜索に12日間の拘留という暴挙があったかと思えば、今月には京丹後の米軍基地建設に反対する市民を不当逮捕、約20箇所にわたる家宅捜索もありました。

いったいどんなことをしたからといってこんな暴挙が罷り通るのか知ったら、皆さん驚かれることでしょう。

ただ経産省前にいた、ただみんなで京丹後に行った、これだけのことなのです。たったこれだけのことで私たちは逮捕され、警察に家を荒らされ、何日も拘留されてしまうのです。

原発をまわし続け被曝を強要し続ける社会を維持するためならば、アメリカと共に侵略と戦争に加担し続けるためならば、どんなささやかな抵抗も弾圧するぞ、というのが今日この日本という国の意志なのです。

沖縄の人々に対してをはじめ、米軍による暴力に晒させながらも基地が必要だと説くために政府は「敵の脅威」を煽ってきました。そのために利用されてきたのが朝鮮民主主義人民共和国であり中華人民共和国です。「経済制裁」という朝鮮への敵視政策は在日朝鮮人への差別、弾圧を強化する形をとりながらもう10年近く続けられています。つい先月も朝鮮からマツタケを輸入した、という「容疑」によって在日朝鮮人の市民を不当逮捕し、起訴するという許されない暴力におよんでいます。朝鮮学校生徒に対する高校無償化排除も続いており、地方自治体の補助金までも凍結というかたちでひろがっています。

皆さん!弾圧と差別に抗えなくては戦争に抗うこともできません。

弾圧に屈することなく抗議をやめないぞ!

 


朝鮮総連に対する弾圧を許さないぞ!
朝鮮学校生徒を高校無償化制度から排除するな!
朝鮮への敵視政策をやめろ!
朝鮮への制裁を無条件に廃止しろ!
日の丸・君が代反対!
天皇制を廃止しろ!

米軍基地を辺野古に押し付けるな!
米軍基地はどこにもいらないぞ!
日本の軍隊・自衛隊もいらないぞ!

不当弾圧に屈しないぞ!
警察は自由にデモをやらせろ!
(ここまで) 

さて、一昨年の7月に毎月デモをはじめて2年が経とうとしますが相変わらず警官とどっちが人数が多いかわからないくらいの規模でなんとか続けております。

何百人、何千人集めるデモを企画する力はないけど、毎月続けられるやり方はなんとなく身につけてきました。少人数でも強い気持ちをもってアピールしていれば、とりあえず振り向く人たちがたくさんいることを感じてきた2年間です。

沿道を歩くひとは毎回違うのかもしれないけど一回一回が誰かにとっては響くかもしれない。

いつも通るコースにある商店街のお店の人たちの中には「こんな声もあるんだな」とほんの僅かでも定着してるかもしれない、そんな楽観的な気持ちを大事にしてやっています。 

他の多くの街頭行動のように私たちのデモでもよく警察と衝突します。「幅を縮めろ」とか「あと一歩前に出ろ」とか、「早く歩け」とかいちいちうるさい。この日は「デモは自由だ!」とこちらが抗議すれば、「デモは自由ではない。許可制だ。守れないなら京都でデモをするな」と信じられない暴言を警察は吐きました。が、その警察の声を私たち参加者みんなは「デモを自由にさせろ!」「警察は邪魔をするな!」の声でかき消しました。

私たちのささやかな抵抗の声をも弾圧しようとする権力を前にして、安心して参加できる運動とはなんでしょう?

ひとりも絶対に被逮捕者を出さない運動でしょうか?

でも、私は逮捕する側ではないのでその方法をしりません。

警察の頭で考えることなんてできません。

警察の頭でものを考えるひとと一緒に行動する自信も意欲もありませんし、そうなってしまっては寧ろどんな声をあげるのもビクビクしなければならないでしょう。

では、私たちはどうやって「安心」を高めていったらいいのでしょうか。

私はそれは抵抗表現を狭めようと、潰そうとする権力に対して抗議するひとを主催も参加者も全力で支え、一緒に抗議していくことでしかはじまらないと思います。もし仮に誰かが逮捕されたときは全力で救い出す。そのひとがまもった抵抗の表現をみんなで一緒に守り抜く。

絶対に孤立させないこと、この原則をまもりながらこれからも続けていきたいと、強く強く強く強く思うのです。

ではでは、またねー。

 

コトコトじっくり煮込んだ日帝♪(レのはちぶおんぷ)

 

 

***かんじなし***

 

おひさしぶりです。 6がつ 20にちに まいつき ていれいの でもを しました。 こんかいは ちかごろの だんあつの はげしさに まけてたまるか という おもいを こめて きょうとしの はんかがいを ゆっくり 1じかん かけて でも しました。

いかは とうじつの すぴーちと しゅぷれひこーる です (じかんが なくて とうじつに うぁーっと つくったので たらない ところ あるかもです … って いいわけ)。

 

(すぴーち)

みなさん、 いかが おすごしでしょうか?

けいさつ・けんさつの おうぼうが めだつ きょう このごろで ございます。

せんげつに けいさんしょう まえに げんぱつ はんたいを うったえるために いた しみんに たいする ふとうたいほ、 かたくそうさくに 12にちかんの こうりゅう という ぼうきょが あったかと おもえば、 こんげつには きょうたんごの べいぐんきち けんせつに はんたいする しみんを ふとうたいほ、 やく20かしょに わたる かたくそうさくも ありました。

いったい どんな ことを したからといって こんな ぼうきょが まかりとおるのか しったら、 みなさん おどろかれる ことでしょう。

ただ けいさんしょう まえに いた、 ただ みんなで きょうたんごに いった、 これだけの ことなのです。 たった これだけの ことで わたしたちは たいほされ、 けいさつに いえを あらされ、 なんにちも こうりゅうされて しまうのです。

げんぱつを まわし つづけ ひばくを きょうようし つづける しゃかいを いじする ためならば、 あめりかと ともに しんりゃくと せんそうに かたんしつづける ためならば、 どんな ささやかな ていこうも だんあつするぞ、 というのが きょう この にほんという くにの いしなのです。

おきなわの ひとびとに たいしてを はじめ、 べいぐんによる ぼうりょくに さらさせながらも きちが ひつようだと とくために せいふは 「てきの きょうい」を あおってきました。 そのために りようされて きたのが ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく であり ちゅかじんみんきょうわこく です。 「けいざいせいさい」という ちょうせんへの てきしせいさくは ざいにちちょうせんじんへの さべつ、 だんあつを きょうかする かたちを とりながら もう 10ねん ちかく つづけられています。 つい せんげつも ちょうせんから まつたけを ゆにゅうした、 という 「ようぎ」によって ざいにちちょうせんじんの しみんを ふとうたいほし、 きそする という ゆるされない ぼうりょくに およんでいます。 ちょうせんがっこう せいとに たいする こうこうむしょうか はいじょも つづいており、 ちほうじちたいの ほじょきんまでも とうけつという かたちで ひろがっています。

みなさん! だんあつと さべつに あらがえなくては せんそうに あらがうことも できません。

だんあつに くっする ことなく こうぎを やめないぞ!

 

(しゅぷれひこーる)

ちょうせんそうれんに たいする だんあつを ゆるさないぞ!

ちょうせんがっこう せいとを こうこうむしょうか せいどから はいじょするな!

ちょうせんへの てきしせいさくを やめろ!

ちょうせんへの せいさいを むじょうけんに はいししろ!

ひのまる・きみがよ はんたい!

てんのうせいを はいししろ!

べいぐんきちを へのこに おしつけるな!

べいぐんきちは どこにも いらないぞ!

にほんの ぐんたい・じえいたいも いらないぞ!

ふとうだんあつに くっしないぞ!

けいさつは じゆうに でもを やらせろ!
(ここまで)

さて、 いっさくねんの 7がつに まいつき でもを はじめて 2ねんが たとうと しますが あいかわらず けいさつと どっちが にんずうが おおいか わからない くらいの きぼで なんとか つづけております。

なんびゃくにん、 なんぜんにん あつめる でもを きかくする ちからは ないけど、 まいつき つづけられる やりかたは なんとなく みにつけてきました。 しょうにんずうでも つよい きもちを もって あぴーるしていれば、 とりあえず ふりむく ひとたちが たくさん いることを かんじてきた 2ねんかんです。

えんどうを あるく ひとは まいかい ちがうかも しれないけど いっかい いっかいが だれかに とっては ひびくかも しれない。

いつも とおる こーすに ある しょうてんがいの おみせの ひとたちの なかには 「こんな こえも あるんだな」と ほんの わずかでも ていちゃく してるかも しれない、 そんな らっかんてきな きもちを だいじに して やっています。

ほかの おおくの がいとうこうどうの ように わたしたちの でもで よく けいさつと しょうとつします。 「はばを ちぢめろ」 とか 「あと いっぽ まえに でろ」 とか、 「はやく あるけ」 とか いちいち うるさい。 このひは 「でもは じゆうだ!」と こちらが こうぎすれば、 「でもは じゆうでは ない。 きょかせいだ。 まもれないなら きょうとで でもを するな」と しんじられない ぼうげんを けいさつは はきました。 が、 その けいさつの こえを わたしたち さんかしゃ みんなは 「でもを じゆうに させろ!」 「けいさつは じゃまを するな!」の こえで かきけしました。

わたしたちの ささやかな ていこうの こえをも だんあつしようと する けんりょくを まえにして、 あんしんして さんかできる うんどうとは なんでしょう?

ひとりも ぜったいに ひたいほしゃを ださない うんどうでしょうか?

でも、 わたしは たいほする がわでは ないので その ほうほうを しりません。

けいさつの あたまで かんがえること なんて できません。

けいさつの あたまで ものを かんがえる ひとと いっしょに こうどうする じしんも いよくも ありませんし、 そうなって しまっては むしろ どんな こえを あげるのも びくびくしなければ ならないでしょう。

では、 わたしたちは どうやって 「あんしん」を たかめて いったら いいのでしょうか。

わたしは それは ていこうひょうげんを せばめようと、 つぶそうと する けんりょくに たいして こうぎする ひとを しゅさいも さんかしゃも ぜんりょくで ささえ、 いっしょに こうぎして いくことでしか はじまらないと おもいます。 もし かりに だれかが たいほされた ときは ぜんりょくで すくいだす。 そのひとが まもった ていこうの ひょうげんを みんなで いっしょに まもりぬく。

ぜったいに こりつさせない こと、 この げんそくを まもりながら これからも つづけていきたいと、 つよく つよく つよく つよく おもうのです。

ではでは、 またねー。

 

ことこと じっくり にこんだ にってい♪ (れの はちぶおんぷ)