活動報告 展示とデモ / かつどうほうこく てんじ と デモ

*****2つめ かんじ つかって ません*****

 

みなさん、はんにちわ。

前回はまだまだ春とはいえない2月末にデモを行いましたね。

ちなみに4月や5月はこんな風に朝鮮制裁に反対する青空展示をしたりしてました。

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(観光地、平安神宮前で朝鮮制裁の年表とかプラカをならべて演説をスピーカーから流してました)

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(ちなみにリニューアルしたプラカードたちです)

 

あれからあっという間に季節はうつりかわって、6月18日、まだ梅雨もあけないというのに真夏日の京都でデモを行いました。

 

今回は、7月に参院選を控え、「打倒安倍政権」とか「野党共闘」とかいう声が聞こえる中で、

ますます言いにくくさせられていることがあるんじゃないか、与党も野党も関係なく、この国では戦争政策がずっと続いてきてるんじゃないか、「選挙へ行こう」で本当にいいのか?というあたりを

路上からアピールしてみました。

 

(スピーチ)

参院選を控えるなかで、32あるすべての一人区では「野党共闘」のもと統一候補をたて政権与党に対抗することも明らかになっています。

 

その背景には昨年に政権与党が強権的に、暴力的に可決した「戦争法」を廃止させるべく「野党共闘」をもとめる声が市民運動の側からもあがったこともあるでしょう。

 

しかし私は訴えたい。

「野党共闘」と言いますが、そのために問えなくさせてしまう課題を残してしまっているのはこの選挙ではないでしょうか?

安倍政権打倒、戦争法廃止を至上目的とながらも、安保体制そのものについて反対の声をつぐんでしまったり、あきらかな憲法違反である自衛隊という日本軍の存在や個別的自衛権を容認してしまったり、反戦を唱えながらも日本がおかした侵略戦争と植民地支配に対する天皇の責任を追求し天皇制廃止を訴えることをやめてしまことなどは決してあってはなりません。

 

安倍政権を打倒さえすれば戦争が避けられるというのは幻想です。

 

安保条約によって駐在する在日米軍の基地を沖縄に集中して押し付け続け、米兵による沖縄のひとびとに対する暴力は後をたちません。ベトナム戦争ではその沖縄の嘉手納基地から飛びたった爆撃機B52によって殺戮がなされました。私たちがこの場所で「戦後70年の平和をまもろう」と語るとき、沖縄には「戦後」などなかったことを知らなければなりません。

 

また、常に「仮想敵」を必要とする日米安保体制は在日朝鮮人を敵国民として規定し、在日朝鮮人への差別はなにも在特会といった排外主義団体によるものにとどまらず政府主導としても起き続けています。朝鮮総連とその関連施設に対する度重なる強制捜査といった政治弾圧や朝鮮学校生徒に対する「高校無償化」排除といった差別・弾圧はそれを物語っています。

朝鮮への「経済制裁」ひとつとりあげてみても2006年以降すでに10年がたちますが、これに反対の意見を投じた議員は今までひとりもいなかったことも知ってください。

日本政府の戦争政策は実は与党も野党も関係なく、挙国一致という状況がすでに10年続いているということです。

 

だから私は訴えます。

選挙はたかが選挙です。

選挙で変えられることもあるでしょうが、選挙では変えられないことを私たちは直接行動によって訴えなければなりません。

本当の意味での平和、誰かを犠牲にすることで、差別することで得るものではない平和を築くためには選挙頼みではなく私たちのそれぞれおかれた状況から個別の声を、直接行動を通してあげる必要があります。

 

今日、ここを歩いている私たちの中には選挙権があるひともいれば、ないひともいます。

そんな誰をも排除することのない私たちの直接行動をともにつくりあげましょう!

 

 

シュプレヒコール

安保条約を破棄しよう!

全基地撤去を実現しよう!

自衛隊という日本軍を解体しよう!

海上保安も解体しよう!

殺人機関の入管も解体しよう!

法務省は死刑執行するな!

宗教的軍事施設ヤスクニ神社を解体しよう!

日の丸かかげるのをやめろ!

君が代ながすのやめろ!

天皇制を廃止しよう!

植民地支配・侵略戦争責任を果たさせるぞ!

歴史の歪曲・忘却をゆるさないぞ!

朝鮮敵視政策をやめろ!

 

 

実は、2月のデモでは、とにかく警察がひどくじゃまをしてきて、それへの抗議も忙しいデモだったのですが、今回はちょっぴりマシで、その分、最初から最後まで言いたいことを沿道にしっかり伝えられたかなと思います。沿道からの罵声はあいかわらずですが、応援の声もありました。

 

これからいわゆる「選挙戦」がはじまって、繁華街にも、地方にも、平和がどうとか、憲法がどうとか、消費税がどうとかって声があふれるでしょう。しかし、これまでの選挙において、多数(選挙に行った人、行けた人)が選び取った結果が、今のこの状況です。そこには、侵略戦争への反省もなく、植民地支配に対する責任を果たそうという声もなく、天皇制が存続していることへの批判もありません。排除はどんどん進んでいます。もういいかげん、選挙に何かをたくし、投票箱に民主主義を吸い込ませて何かに参加したような気になるのは、今の状況の後押しにしかなっていないことに気づいた方がいいと思います。

 

選挙権があるひとと、ないひとと、いっしょに歩きながら、そんなことを考えていました。

 

♪(んのはちぶきゅうふ)

 

*****かんじ つかって ません***** 

 

みなさん、はんにちわ。

ぜんかい は まだまだ はる とは いえない 2がつ まつ に でも を おこないましたね。 ちなみに 4がつ や 5がつ は こんな ふう に あおぞら てんじ を したりしてました。

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(かんこうち、へいあんじんぐう まえ で ちょうせんせいさい の ねんぴょう とか プラカ を ならべて えんぜつ を スピーカー から ながしてました) 

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(ちなみにリニューアルしたプラカたちです)

 

あれから あっというま に きせつ は うつりかわって、 まだ つゆ も あけない と いうのに まなつび の きょうと で でも を おこないました。 こんかい は、 7がつ に さんいんせん を ひかえ、「だとう あべ せいけん」 とか 「やとう きょうとう」 とか いう こえ が きこえる なかで、 ますます いいにくく させられて いる こと が あるんじゃないか、 よとう も やとう も かんけいなく、 この くに では せんそうせいさく が ずっと つづいて きてるんじゃないか、 「せんきょ へ いこう」 で ほんとう に いいのか? と いう あたり を ろじょう から あぴーる してみました。

 

(すぴーち)

さんいんせん を ひかえる なか で、 32 ある すべて の ひとりく では 「やとう きょうとう」 の もと とういつこうほ を たて せいけんよとう に たいこう する こと も  あきらか に なっています。 その はいけい には さくねん に せいけんよとう が きょうけんてき に、 ぼうりょくてき に かけつ した 「せんそうほう」 を はいし させるべく 「やとう きょうとう」 を もとめる こえ が しみんうんどう の がわ からも あがったこと も あるでしょう。

しかし わたし は うったえたい。

「やとう きょうとう」 と いいますが、 そのため に とえなく させて しまう かだい をのこして しまっているの が この せんきょ では ないでしょうか?

あべせいけん だとう、 せんそうほう はいし を しじょうもくてき と しながらも、 あんぽたいせい そのもの に ついて はんたい の こえ を つぐんで しまったり、 あきらかな けんぽう いはん で ある じえいたい という にほんぐん の そんざい や こべつてき じえいけん を ようにん して しまったり、 はんせん を となえながら も にほん が おかした しんりゃくせんそう と しょくみんちしはい に たいする てんのう の せきにん を ついきゅうし てんのうせい はいし を うったえる こと を やめてしまこと など は けっして あって は なりません。 あべせいけん を だとう さえ すれば せんそう が さけられる と いうのは げんそうです。 あんぽじょうやく に よって ちゅうざい する ざいにちべいぐん の きち を おきなわ に しゅうちゅう して おしつけ つづけ、 べいへい に よる おきなわ の ひとびと に たいする ぼうりょく は あと を たちません。 べとなむせんそう では その おきなわ の かでなきち から とびたった ばくげきき B52 に よって さつりく が なされました。 わたしたち が この ばしょ で 「せんご70ねん の へいわ を まもろう」 と かたる とき、 おきなわ には 「せんご」 など なかった こと を しらなければ なりません。 また、 つねに 「かそうてき」 を ひつよう とする にちべいあんぽたいせいは ざいにちちょうせんじん を てきこくみん として きてい し、 ざいにちちょうせんじん への さべつ は なに も ざいとくかい と いった はいがいしゅぎだんたい に よる もの に とどまらず せいふ しゅどう と しても おきつづけています。 ちょうせんそうれん と その かんれんしせつ に たいする たびかさなる きょうせいそうさ と いった せいじだんあつ や ちょうせんがっこうせいと に たいする 「こうこう むしょうか」 はいじょ と いった さべつ・だんあつ は それ を ものがたって います。

ちょうせん への 「けいざいせいさい」 ひとつ とりあげて みても 2006ねん いこう すでに10ねん が たちますが、 これに はんたい の いけん を とうじた ぎいん は いままで ひとり も いなかった ことも しってください。

にほんせいふ の せんそう せいさく は じつ は よとう も やとう も かんけい なく、きょこくいっち と いう じょうきょう が すで に 10ねん つづいて いる と いうことです。 

だから わたし は うったえます。

せんきょ は たかが せんきょです。

せんきょ で かえられる こと も あるでしょうが、 せんきょ では かえられない こと をわたしたち は ちょくせつこうどう に よって うったえ なければ なりません。

ほんとう の いみ での へいわ、 だれか を ぎせい に することで、 さべつ する ことで えるもの では ない へいわを きずく ためには せんきょだのみ では なく わたしたち の それぞれ おかれた じょうきょう から こべつ の こえ を、 ちょくせつこうどう を とおして あげる ひつよう が あります。 きょう、 ここ を あるいている わたしたち の なか には せんきょけん が ある ひと も いれば、 ない ひと も います。

そんな だれ をも はいじょ する こと の ない わたしたち の ちょくせつこうどう を とも に つくり あげましょう!

 

(しゅぷれひこーる)

あんぽじょうやく を はきしよう!

ぜんきちてっきょ を じつげんしよう!

じえいたい という にほんぐん を かいたいしよう!

かいじょうほあんちょう も かいたいしよう!

さつじんきかん の にゅうかん も かいたいしよう!

ほうむしょう は しけいしっこう するな!

しゅうきょうてき ぐんじしせつ やすくにじんじゃ を かいたいしよう!

ひのまる かかげる の を やめろ!

きみがよ ながす の やめろ!

てんのうせい を はいししよう!

しょくみんちしはい・しんりゃくせんそう せきにん を はたさせるぞ!

れきし の わいきょく・ぼうきゃく を ゆるさないぞ!

ちょうせんてきしせいさく を やめろ!

 

 

じつは、 2がつ の でも では、 とにかく けいさつ が ひどく じゃま を してきて、 それへの こうぎ も いそがしい でも だった の ですが、 こんかい は ちょっぴり まし で、 その ぶん、 さいしょ から さいご まで いいたいこと を えんどう に しっかり つたえられた かな と おもいます。 えんどう から の ばせい は あいかわらず ですが、 おうえん の こえ も ありました。 これから いわゆる 「せんきょせん」 が はじまって、 はんかがい にも、 ちほう にも、 へいわ が どうとか、 けんぽう が どうとか、 しょうひぜい が どうとかって こえ が あふれるでしょう。 しかし、 これまで の せんきょ に おいて、 たすう (せんきょ に いった ひと、 いけた ひと) が えらびとった けっか が、 いま の この じょうきょう です。 そこには、 しんりゃくせんそう へ の はんせい も なく、 しょくみんちしはい に たいする せきにん を はたそう という こえ も なく、てんのうせい が そんぞく している こと への ひはん も ありません。 はいじょ は どんどん すすんで います。 もう いいかげん、 せんきょ に なにか を たくし、 とうひょうばこ に みんしゅしゅぎ を すいこませて なにか に さんか したよう な き に なるのは、いま の じょうきょう の あとおし に しか なっていないこと に きづいた ほう が いい と おもいます。 せんきょけん が ある ひと と、 ない ひと と、 いっしょ に あるきながら、 そんな こと を かんがえて いました。

 

♪(んのはちぶきゅうふ)