「男」中心主義に抗って

 野間易通氏(@kdxn)は、ツイッター上で「レイシストをしばき隊」(以下、しばき隊)の隊員を募集したあと、参加を希望した人に対して以下1.のような返答をしている。また、彼がリツイートしたものを2.に引用する。

 

1.

@manic_insomnia女子はだめです。あいつら女子供老人を集中的に標的にしますんで。

2013130 - 5:59

https://twitter.com/kdxn/status/296618669671333888

 

2.

「しばき隊」に女性はご遠慮みたいな発言に対して、マイノリテイポリティクス的に批判するツィートまであってのけぞった。平和ボケもいい加減にしろ。ナチの突撃隊に対抗してドイツ共産党でも社民党でも護衛部隊を持っていたが、そこに女子供がいたという話は聞いたことはない。

201321 - 18:58 @Serpent_Rouge

https://twitter.com/Serpent_Rouge/status/297539429344632832

 

 在特会(あいつら)が「女性」や子ども・高齢者といった、社会のなかで「弱者化」されたひとたちを行動のターゲットにする傾向にあるという認識のもと、自らが組織するカウンター行動への「女子」の参加を制限するという。また、2.は野間氏の発言ではないが、付言せずにリツイートしていることから、ある程度賛同している意見であると考えられる。在特会に対してナチスの突撃隊を引き合いに出しているが、それがどんな意味を持つというのか。確かに、我々がナチス・ファシズムへの抵抗の歴史から学ぶべきことは多いと考える。しかし、抵抗運動の歴史にも必ず限界や残された課題があるものであり、常に新しい光によって評価を更新し続けることによってこそ今日への教訓として活かされるべきである。ましてやナチの親衛隊による暴力と在特会のそれとの間の相違を勘案することなく前者への抵抗運動を無批判にモデル化するのは暴論である。ナチスの突撃隊は武装組織であったし、在特会の行っている暴力行為とは程度も含め違いがあるにもかかわらず、「ナチスの突撃隊」というおどろおどろしいイメージを導入することで、抵抗運動の在り方そのものに抑圧(この文脈では女性排除)が生じることに納得させようとするのは不誠実である。事実として、ナチスに対抗するドイツ共産党の赤色前線や、社会党の国旗団において、直接の戦闘部隊は「男性」のみで構成されており、「女性」は投石用の石を割って運んだり炊き出しをしていたという。より前線に立つことが立派であることだとは思わないが、いわゆる「裏方」としての役割に押し込められたことについては、「女性」が抑圧されてきた歴史の一部として捉えるべきである。都合よく切り取った歴史を根拠に「女性」排除を正当化するようなことは許されない。「女子」は自身に向けられたヘイトに自らが抵抗する権利を持たないというのか。時代の限界に挑み、決められた役割に応じるのではなく、「女性」たちが自分で決めて行動してきた、抵抗の主体として立ち上がってきた闘いの歴史からこそ我々は学ぶべきであると考える。

 抵抗が「危険」であるからといって、その権利を奪ってしまうことがあってはならない。それは暴力である。「男性」よりも「女性」が不当に危険にさらされやすいことは日常であり、いつでも起こっていることである。そんな「危険」が当たり前とされる、この日常に憤りを感じるのだ。例えば、夜道が「女性」にとって「危険」であることが自明であるとし、ただ早い時間に帰そうとする「男性」の行動も抑圧的である。「危険」が平常だとして、勝手に排除してくれるな。「危険」である状況に抗おうとしない怠慢をもって、誰かの抵抗する権利を剥奪してはならない。

 

最大の問題点は、桜井がおにぎりにガードされているところ。小柄な女性を盾に使ってどうする。この動画は、桜井のクズっぷりを余すところなく伝えている。RT @three_sparrows: 桜井が昨日のデモに触れたがらない理由の一つかな。http://youtu.be/9W8I-rnzPrg

2013512 - 19:54

 

@kdxn新大久保で清水がしばかれたときにも、荒ぶるカトテツを真っ先に体で止めようとしたのはおにぎりだった。東神奈川でジョンや金子がボーッと突っ立ってたのとは対照的。彼女は献身的な人なのだと思う。でも桜井みたいなヘイト豚は、身を危険に晒してまで守る価値ないよ。

2013512 - 20:05

https://twitter.com/kdxn/status/3337772161755013122013512 - 20:052013512 - 20:052013512 - 20:05

 

 これは、2013511日の在特会デモでの様子について野間氏が述べたものである。誰が誰を盾にしようと、守ろうと、どうだっていい。野間氏が問題にしてるのは、彼にとって「小柄な女性」が「本来であれば守られるべき存在」であるからである。

 「女性」は「守られるべき存在」などではない。男性中心主義的な社会のなかで、「女性」はいつも「守られるべき/守ってやるもの」として存在することを強いられてきた。それは運動組織のなかでも同様であり、「男性」が中心を担い、「男性」の価値観や手段に基づいてすすめられる運動のなかで、「女性」は内助の功を求められ、その主体は抑圧されてきた。このような指摘が社会運動組織の内部から出てきて久しいが、現状はどうだろうか。「しばき隊」の「女子」排除も、このような男性中心主義・セクシズムからきているものであると考える。運動において、組織する人物のセクシズムに基づいた裁量によって、排除される存在があってはならない。

 

 シングルイシューを高らかに謳う「反レイシズム運動」においては、上記のような抑圧関係も問題化されないのだろうか。そんな運動が作る未来なんて、結局一部の人間にとって都合のいい社会である。「女性」が自分たちで考えて行動する権利を奪うな。いつまでも「男」が出しゃばっている社会なんて、わたしはいらない。