仲良く(なかよ)しようぜパレードに対(たい)する不支持声明(ふしじせいめい)その2 -ルビふりバージョン-

 これは差別(さべつ)被害(ひがい)特定(とくてい)地理的(ちりてき)場所(ばしょ)(かぎ)った(じょう)での、反差別(はんさべつ)論理(ろんり)ではなく動員(どういん)制圧(せいあつ)論理(ろんり)ではないか。それだけならまだしも「しばき(たい)/プラカ(たい)(わく)(おこな)われた差別行為(さべつこうい)論理(ろんり)(せい)(よわ)さへの批判(ひはん)(たい)して(だま)れだの人数(にんずう)もろくにいないくせにだのといった(はん)(ばく)仕方(しかた)までくれば、これはもはや()てば官軍多勢(かんぐんたぜい)無勢(ぶぜい)軍事(ぐんじ)論理(ろんり)ではないか。自分(じぶん)たちの言動(げんどう)暴力(ぼうりょく)(せい)(かえり)みずに動員(どういん)(すう)街頭(がいとう)制圧(せいあつ)だけにこだわった結果(けっか)として制圧(せいあつ)(あと)(のこ)るのは「現場(げんば)」で/から形成(けいせい)される「ナショナルプライド」であり「現場(げんば)」で/から形成(けいせい)される日本国民的連帯(にほんこくみんてきれんたい)であり、それにそぐわないものは(あらた)めて「こうるさいヘサヨ」「団結(だんけつ)(やぶ)るもの」としてレッテルばりされ疎外(そがい)され、そういった部分(ぶぶん)には暴力(ぼうりょく)排除(はいじょ)容認(ようにん)されていく、そういう荒涼(こうりょう)とした空気(くうき)ではないだろうか。

 

 (いま)、パレードの実行(じっこう)過程(かてい)において、また今後(こんご)(わた)りそれが強化(きょうか)されていく(こと)(あらた)めて危惧(きぐ)する。この「仲良く(なかよ)しようぜ」を合言葉(あいことば)宣伝(せんでん)動員(どういん)がかけられていながら、一連(いちれん)のカウンター行動(こうどう)()きてきたことへの批判(ひはん)(とそれに(たい)する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)()めたレッテル()攻撃(こうげき))に(たい)して無関係(むかんけい)(よそお)うのであれば、それもまた不誠実(ふせいじつ)(きわ)まりない無責任(むせきにん)なパレードとしてやはり不支持(ふしじ)(つらぬ)くべきであると(かんが)える。

 

 最後(さいご)に、主催者(しゅさいしゃ)年齢(ねんれい)具体的(ぐたいてき)にはその(わか)さ)や「(おも)い」の純粋(じゅんすい)さを強調(きょうちょう)して批判(ひはん)邪魔者(じゃまもの)かのように(あつか)()きも一部(いちぶ)でみられるが、大変(たいへん)くだらない。「若者(わかもの)」の運動(うんどう)、その「(おも)い」を(ささ)えたいなら、批判(ひはん)(こた)える(うえ)でのアドバイスでもしっかり(おく)ってあげればよいのであって、無責任(むせきにん)(うなが)して信頼(しんらい)()られない運動(うんどう)(つく)らせてどうする?自分(じぶん)がやらなかったことを「若者(わかもの)」の「(おも)い」に()せて無責任(むせきにん)さまで(ふく)めて代行(だいこう)させるのはやめるべきである。それこそ主催者(しゅさいしゃ)失礼(しつれい)(はなし)としか()いようがない。

 

 批判者(ひはんしゃ)をたたき()せ!こんな(こえ)賛同者(さんどうしゃ)から()てくる軍事的運動(ぐんじてきうんどう)はもう十分(じゅうぶん)だ。(わたし)たちは批判者(ひはんしゃ)をたたき()すよりも、自分(じぶん)たちが内面化(ないめんか)している多数(たすう)差別感覚(さべつかんかく)をえぐりだしたたき()反差別(はんさべつ)運動(うんどう)をしていく(こと)をここに宣言(せんげん)する。

 

コトコトじっくり煮込(にこ)んだ日帝(にってい)(おんぷ)