ナショナリズムは反(はん)レイシズム運動(うんどう)にとって資源(しげん)になるのか?
1.日の丸を泣かせる者
当ブログの過去の記事でも簡単に触れたが、在特会などの排外デモに対する「カウンター」と称する運動の中にはナショナリズムを煽るような言説が利用されてきた (http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/08/01/181751 )。
noiehoie@noiehoie
「煮干しと昆布で出汁をとったラーメン」なんて素敵なものがあるこの国に、レイシズムは似合わんのよね。ラーメンみたいにいろんなもんが一緒に入ってるのが当たり前なんだから。
posted at 15:05:50
Kino Toshiki @Kino_Toshiki
「自分は保守・右だと思っているが在特会みたいなレイシズムは大っ嫌いだ、あんなものは愛国じゃねえ!!」って人も#反韓デモに対する意思表示に来てくれ!ガンガン来てくれ!日本民族を誇りに思うんなら、他民族も同じように尊重するよな?そうだろ? posted at 02:08:37
Kino Toshiki @Kino_Toshiki
日の丸掲(かか)げて民族差別か...。最悪ね。RT @andore1002 黙れ偽善者! RT @kagakunoumi: 人種を持って「好き」か「嫌い」か決めることは、どちらにせよ差別であり、下品な行為ですね。日の丸をアイコンにくっつけるなら品格を持ちなさい。@orchid0730 posted at 19:54:58
野間易通@kdxn
ナショナル・プライドはレイシズム抑制に有用な概念です。RT @yanegon: その場合の「日本人として恥ずかしい」は、まさしく「日本人として」の「恥」を回避したいあまりに、自分たちを告発する他者の視線を無化しようとして恥知らずにいたる歴史修正主義者と、どれほどの距離がposted at 09:59:56
そして現に、新大久保や鶴橋における「カウンター」行動においても、こういう言説に沿って「日本の恥」、「それ真の愛国ちゃう」、「日本国旗が泣いている」といった文言がプラカードにも記載されて用いられているようであり、そうした手法が運動の「敷居」を下げるものとして歓迎もされているようである(ここで使う「敷居」は辞書的な意味ではなく「ハードル」に近い意味)。これらの言説は、 在特会らを貶めてくじけさせようとする点に目的を置いている点では「知恵遅れ」や「ヘイト豚」、「イナカモン」などど同じ使われ方だと言えよう(http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/08/01/181751)。 排外デモという行為それ自体を「悪い」ものとして反対するのではなく、相手をくじく「効果」を優先する余り、差別に反対するのではなく、むしろ根強い差別意識に訴える方法、スティグマを再生産し 付与することを積極的に行っているのである。つまりここでは<真の愛国>に失敗した<日の丸を泣かせる者>として断罪されているのである。
2.日の丸が泣かせる者「カウンター」行動におけるこれらの言説によってまるで<真の愛国者>の座をめぐる正統性あらそいが起きているようであるが、例えば「日の丸」ひとつとってみても現実は「日の丸」によって泣かされている。99年に日の丸および君が代が国旗・国歌として制定されて以降、法律には罰則規定 はないものの、条例や規則をもって式典において「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱する、いわゆる起立斉唱が強要されこれに拒否した者たちが罰せられるという事件も相次いで起こっている。日本の愛国とは、過去の侵略、植民地支配の象徴に抵抗する者たちを弾圧してきたのであり、日本の加害の歴史について自虐史観として日本軍性奴隷はじめ数々の戦争犯罪行為を否認する歴史修正主義も日本の愛国なのである。しかし、敢えて強調するならば「愛国」の中身が大事なのではない。いったん「愛国」であることが正しいとされてしまえば、その中身などいつでも都合よく転がされ得る。何が「愛国」であるのか、誰が「愛国者」で誰が「反日」「非国民」「売国奴」であるか、その線を引く行為が国民国家を所与とした「国民」の占有物として既に特権的なのである。たとえ仮に「真の愛国者」が「多文化共生」をうそぶいてみたところで、そこで求められるのは日本の文化をより豊かにする「善き隣人」としての行儀のよい客でしかない。そこでは中心としての日本が揺るがされてはならないのである。しかも、少なくとも現状において日本の「愛国」とは権力への隷属状態であり、国家による差別を支えるもの以外のなにものでもない。朝鮮学校の教育はしばしば「反日」と形容され、それをもって公的に保障されるべきでないという論調は強い。教育内容がたとえ 日本社会のお気に召したところで、「反日」の朝鮮総連、「反日」の朝鮮民主主義人民共和国と何らかの繋がりがあると認められれば、それをもって差別的処遇が正当化される。「国民/都道府県民/市民の理解」が得られないと朝鮮学校は「高校無償化」から排除され続け、地方自治体の補助金を打ち切られていく。気に入らない相手を「反日」と形容してしまえば差別は許されるとするのが現実の日本であり、日本の愛国なのである。朝鮮民主主義人民共和国が、朝鮮総連が、朝鮮学校の民族教育が、いかなる意味で「反日」なのかについては往々にして悪意に満ちた偏見によって扇情的に語られるが、その核心が日本の加害責任を問い続けることにあることを忘れてはならない。排外デモ参加者の日の丸は泣いてなどいない。日の丸に相応しく立派にはためいている。いたって「正しい」使われ方をしているのだ。
3.本当に「敷居」は下げられたのか
「日本の恥」や「真の愛国ちゃう」とうメッセージは言い換えれば「真の日本人、日本社会、日本国家ならば民族差別などしない」というものであり、これはあの新大久保や鶴橋などで 起こる朝鮮人に対する排外デモを日本社会におけるイレギュラーなものとして他者化し、 例外扱いとしてしまうものである。これでは日本国家による朝鮮人差別についてそれをやめさせるという責任は放置され、排外デモ参加者に対してすらもカウンター行動を<美しい日本>として演出するための材料として叩くばかりで責任追及には至らない。単に「カウンター」参加者が排外デモに対峙しているという「民族差別を許さない日本」の画をとにかく作りだし、見栄えの悪い、臭いものに蓋をして隠蔽し、排外デモを生み出す、そもそも差別的な日本社会を免責したいという欲望が垣間見えるようである。ナショナリズムを煽れば運動の敷居を下げると言う。なるほど、「カウンター」活動に参加するものは確かに多くなったのだろう。しかしこれは「誰もが参加しやすい」という意味での運動の敷居が下がったのではなく、単に日本人のマジョリティにとって居心地がよくなっただけである。そしてそれは実際には在特会を生み出した<在特社会>である日本社会そのものの差別性に向き合い闘う者たちにとっての参加の敷居をむしろ上げてしまったのではないだろうか。この「カウンター」の手法を取る限り、朝鮮人は「差別なき真の日本」の演出、「日本の国益」の増進のために、何の文句も言わずに、むしろずっと排外デモの標的であり続けてもらわねばならず、その主体性が繰り返し奪われ続ける。下げられたのは「反差別・反レイシズム」運動の敷居ではなく、運動が目指すべき理想である。いや、単に妥協的な次元ではなく、より巧妙に朝鮮人を周縁化し日本人中心主義の在特社会を維持し強化したのであるであるから180度転回させてしまったというほうが正確かもしれない。
4.まとめ
結局、ナショナリズムを用いた「反差別・反レイシズム」運動によって作り出されたのは、排外デモに反対するだけで「反差別」の称号を得られる(つもりの)「普通の日本人」が「真の愛国者の正統性争い」、「国益増進競争」を繰り広げ、その周りに文句を言わない朝鮮人を従えているという構図であった。日本の民族差別の標的とされる者は、それら「競争」の燃料としてのみ、存在が許されるのである。そして、そこで同時に生じるのが、 排外デモに「は」反対を表明する、「真の日本人」「真の愛国者」(を目指すもの)としての、右翼勢力の進出・増長である。民族差別の元締=日本政府への責任追及などはなおさらありえない。「運動の敷居」とうそぶきながら、「反差別・反レイシズム」が目指すべき先を失わせている。例えば、東京の大行進に関しての話だが、朝鮮学校「無償化」除外というレイシズム政策に反対するかどうかなど、政治的駆け引きのカードのひとつでしかなかった(https://twitter.com/kdxn/statuses/356193517472718849)。「日本人による反差別・反レイシズム!」の外面だけが整えられる一方、日本政府は着々と民族差別・弾圧を進めることができるのである。このように、ナショナリズムを用いる手法によって「反差別・反レイシズム」を実現することは、不可能かつ有害であり、根本から間違っている。いくら一瞬味方に見えたとしても騙されてはいけないし、絶対に与してはいけないのである。