ふたつ前の記事(「仲の良さの話じゃない」http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2014/05/25/231231)へ再びitokenichiroさんから返答がありましたので、それへの応答です。(上記URLのコメント欄を参照ください。)
の返答、またこれまでのコトコトブログにおいても、わたしたちは在日朝鮮人へのヘイトスピーチや朝鮮学校の高校無償化制度からの除外を含む日本社会の在日朝鮮人への様々な差別が、日本帝国主義による朝鮮の植民地支配に起因し、よって反差別を訴えるうえで支配責任を果たすことを求めることこそが必要であると述べてきました。日本による朝鮮への差別が続いているいま、植民地支配が継続しているという言い方もできるでしょう。そして、この支配構造を克服するにあたって、当人たちが「仲良くするかどうか」は関係ないことです。(全面的に同意していただいたみたいですね。)
しかし一方で、「責任果たすまで仲良くしない」ことが「悠長」であるという意見をいただきました。ヘイトスピーチ、ヘイトクライムまで起きている現状において、仲良くしないのは「悠長」であると。「植民地支配責任を果たすつもりのないひとと、仲良くしたくない」というわたしたちの主張が「悠長」だと。そのうえで持ち掛けられる「仲良くしようぜ」、これは何かの脅迫でしょうか。ヘイトスピーチ、そしてヘイトクライムまでが起きていることをもって「仲良く」することが必要だと迫りたいのでしょうか。ここには認識を欠いている点が大きくふたつあると思います。
ひとつめに、これまで何度も述べてきたし、同意していただいたはずのことですが、ヘイトスピーチやヘイトクライムといった差別の問題と「仲良くするかどうか」は関係のない話だということ。「ヘイト」は直訳すると「憎悪」ですが、朝鮮人に向けられる「ヘイト」は帝国主義的な朝鮮蔑視に基づくものであることは自明です。「ヘイト」(憎悪)には「仲良く」(愛)をもって制するといった考えはあまりに中身のない言説ではないですか。さらに、これまで在特会の「カウンター」としてヘイトスピーチに対抗してきたひとびとの中には、歴史修正主義的思想を支持する右派もいました。(反ヘイトスピーチを謳う歴史修正主義者の存在について、こちらの記事で言及されています。ご参照ください。:「あのね、あなたはね、のりこえられるほうなの…」http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2014/03/16/011619)まさに「右も左もない」といったスローガンのなかで右派とも手をつないで行われてきた「カウンター」、「ヘイトへの抵抗」をもって、自覚的であれ無自覚的であれ「過去の問題」に取り組んでいると言われてもわたしたちは到底納得ができません。そのなかには保守愛国を謳い日本の朝鮮への侵略を美化するものがいますし、民族差別的発言をするものもいます。そのような存在たちが、ただ在特会の排外デモに反対できているというだけで黙認されたり、ましてやときには称揚されるような様子をわたしたちは見てきました。このように運動内部の排外主義者については批判を加えない勢力に対して、わたしたちは手をつなぎたくないという意思表明を示すほかありません。こういった主張をすると、「ヘイトスピーチ/クライムを放っておくのか」の責め立てられることがしばしばありますが(今回itokenichiroさんの主張も同じだと言えますね)、在特会のまき散らすヘイトスピーチ、これが今最も悪いことであり、これへどんな手を使ってでも(歴史修正主義者と手をつないででも)対抗していくこと、それが喫緊であり、何よりも優先されるべきことなんだと勝手に決めつけ、押し付けてくること、これはあまりに身勝手で横暴ではありませんか。このような主張が、在特会に反対するあらゆるひとと手をつなげるかという踏み絵となり、在日朝鮮人たちに分断を持ち込んでいるという状況があると考えます。手をつなぐことができない、カウンターに参加できない朝鮮人が「ヘサヨ」などとラベリングされ貶められている状況は結局のところ「悪い朝鮮人は殺せ」と変わらないのです。
そして、だからこそふたつめには、「仲良くしようぜ」という言葉がハラスメントになり得ることについて。この言葉が、どのような主体からどこへ向けられているものなのか知りませんが、いわゆる在特会カウンターから在特会へ向けられることや、日本人と朝鮮人の友好といった文脈で交わされることなどが想像できます。すべてのひとびとはさまざまな権力関係のなかで生きており、そんななかで(民族やジェンダー、年齢など権力関係はあらゆる側面が複合しているため具体例は挙げませんが)抑圧者から被抑圧者へ「仲良くしようぜ」という言葉がかけられるとき、不当な圧力がかかっていることについて想像できませんか。社会的に平等でない間柄で、力を持つ方からこのように持ち掛けられるとき、じゅうぶんハラスメントになり得ます。「向こうも仲良くしたいはずだ」なんてのは、勝手な思い上がりです。この言葉で突き進むとき、誰かが不当な扱いを受けるかもしれない。このような危惧が拭えません。
に、itokenichiroさんからは『「未来志向」という態度は「過去のことは水に流す」という無責任な態度」ではない』といただきましたが、この「未来志向」という言葉自体は、日本が過去に侵略したり植民地支配を行った国々との関係で小泉政権期に特に多用・強調されたものであり、残念ながらその中身は戦後補償問題については二国間条約によって解決済みという立場を保持し侵略戦争責任、植民地支配責任を果たそうとしない姿勢の表れです。きっと何もしなければ(しなくても)世の中は「未来志向」に動きますし、支配責任は果たされぬまま、差別もなくならないのが目に見えます。だからこそわたしたちは、『ふぁっく「未来志向」、責任果たすまで「仲良くしないよ」』と掲げているのです。たとえ仲良しに取り込まれなくても、自身の加害性と向き合い、差別と闘い、歴史の清算を訴えていく個が尊重される運動でなければ未来はないですよ。
コトコトじっくりにこんだにってい♪