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8.6デモほうこく

***** 2つめ は かんじ なし です♪*****

 

おととい8月6日にデモをしました。

京都市は37℃まで気温が高まった猛暑日でした。夏場あまりに暑いなかでのデモはしんどすぎると事前に憂慮し、この日は夕方の7時と少しばかり涼しくなった頃からスタートし、京都市の繁華街を1時間超かけて歩きました。

今回は広島に原爆が投下された8.6という日の意味も込めて、スピーチを考えました。その際にこの間にあった様々なことを思いました。

 

参院選、都知事選、高江での機動隊による暴力、相模原での事件、オリンピック、アキヒトの玉音放送します宣言…他にもたくさん…

 

なんか胸が苦しくなることだらけで、あれもこれも言いたいことだらけです。しかしデモのスピーチという形で果たしてどこまでのことが盛り込めるか、繋げていけるだろうかと悩みながら書いてみたら、けっきょく結構長くなりました。

 

削ったほうがいいかな、と考えもしましたが長いスピーチのまま残しました。

 

沿道の人たちに主張の全体像を伝えるには長すぎるスピーチは不適当なスタイルなのかもしれませんが、様々に起こっている苦しいことを繋げていく言葉を紡ぎたかったし、部分的にしか聞いてもらえなくてもそこから何かが伝わって欲しいという気持ちで精一杯訴えました。

 

シュプレヒコールは二年ぶり(?)に俳句スタイルで吟じました。

なかなか、良い感じでしたよ。

スピーチ(とシュプレヒコール)、ぜひ読んでみてくださいね。

 

(スピーチ)

この時期になると毎年、学校教育を通してであったりテレビや新聞の特集を通してであったり、あるいは地域の市民集会を通してなど、様々な場で、様々な形で「原爆の悲劇を、戦争の悲惨さを忘れてはならない、繰り返してはならない」と言われます。

 その通りだと思います。私たちはそれを決して忘れてはならないし、繰り返してはなりません。

 

 しかし私たちは果たして本当にそのように「戦後」を歩んできたと言えるでしょうか?

 

原爆の悲劇、世代をこえて続く被曝の恐ろしさを知っていたはずなのに、戦後、原発を地方に押し付け、原発労働者を被曝にさらし、その生をむしばみ続けていることに対して、様々な闘争がありながらも私たちの多くは目を背けてきました。そしてついにはチェルノブイリ以来最も深刻な原発事故を引き起こしてしまいました。

既に起きている健康被害と長い将来をかけて起きるであろうさらなる被害に対しても十分なことが何もできておらず、事故収束もままならないにもかかわらず川内原発を再稼働させてしまっただけでなく、伊方原発も来週11日には再稼働と報道されています。またそんな原発を事故後も日本は世界に輸出してもいます。

原発に留まらず、日本の「戦後」は日米軍事同盟によりアメリカの「核の傘」のもとにあることを受けいれてきてしまってもいます。

 

また、二度と戦争をしないと誓ったはずなのに、まさにその日米軍事同盟のもとにアメリカの侵略戦争に積極的に加担してもきました。

日本の敗戦後からわずか5年後の1950年に始まる朝鮮戦争においては現在の自衛隊の前身となる警察予備隊が組織され再軍備化の足がかりとしました。ベトナム戦争では沖縄の嘉手納基地から戦闘機が飛び立ち、その後も湾岸戦争イラク戦争と日本は常に戦争に関わってきました。

そのような「戦後」日本の戦争の歴史、そのときどきで反戦運動もありましたが、それをとめることができなかったその後になると私たちの多くはそんな歴史をすっかり忘れてしまったかのようにも思えます。

 

今や多くのひとが「戦争は嫌だ」、「平和が良い」と思っているにもかかわらず、先の参院選においても、原発推進政策をやめず、戦争法を暴力的に可決させ憲法改悪を目指す与党はさらに議席を増やしました。東京都の新知事には核武装論も排除せず、排外主義を扇動する極右政治家の小池百合子さんが大差をつけて選ばれました。

 

どうやって私たちはこのような状況を許してしまうに至ったのでしょうか?

 

それは私たちの多くが原発も米軍基地もそれぞれ地方に、沖縄に、と押し付けてそこで起こる矛盾と暴力をはらみながらまわっていた社会を「平和」や「戦後民主主義」とよんできたからではないでしょうか?

 

あるいは、日米軍事同盟のもと仮想敵として朝鮮の脅威が煽られ、朝鮮に対する制裁がどれだけ続こうと、そしてその一環として国内の朝鮮人に対する差別と弾圧が国策としてまかり通っていても、ほとんど誰も見向きもしなかったからではないでしょうか。

 

沖縄の辺野古で、高江で新基地・ヘリパッド建設を強行するために今もまさに起きている日本国家による剥き出しの暴力をひとごとにしてきたらからではないでしょうか?非暴力の抗議をつらぬく人々に対する海保による暴力、機動隊による暴力は既にいつ死者を出してもおかしくない段階にまできています。

また、沖縄のいたるところに米軍基地があることで起きてきた数々の暴力をひとごとにしてきたからではないでしょうか?

 

沖縄に限らず、身近なところでは京丹後の宇川地区にも米軍のXバンドレーダー基地が建設され2014年末からレーダーが稼働しています。地元住民の過半数の反対の声がありながら基地が作られて以降、すでに米軍関係者による数多くの人身事故が起き、レーダーから発生される電磁波やジェネレーターからなる低周波音などによる健康被害を訴える声、不安の声があるにもかかわらず、有効な対策も講じず住民に犠牲を強いています。その京丹後宇川から聞こえてくる声を京都市にも届けようと街頭で訴えてもまだまだ関心が薄くひとごととして捉えられていることを強く感じています。

 

いつからか「反戦」、「平和」を求める声は「被害の記憶」、それも特に都市に住む、<日本人ヤマト>の、男性の、健常者にとっての「被害の記憶」だけに依拠するようになってしまったように思います。

 

広島、長崎への原爆投下によって被曝したのは日本人だけでなく旧植民地から来た7万人余りの朝鮮人が被爆し、4万人余りが命を失ったと言われています。また同じく日本の植民地であった台湾のひとびと、その他のアジアからの留学生やオランダ、アメリカ、イギリスからの捕虜となっていたひとたちが被爆したこともあきらかになっています。この人たちの多くは戦後も長らく原爆援護法の申請ができなかったり、申請しても却下されてしまうという状況が今日まで続いています。

 

<日本人ヤマト>の「被害の記憶」のみに依拠して唱えられる「反戦」「平和」であっては、再び<大事なひとをまもるため>、<「国民」をまもるため>、ひいては<国をまもるため>、という「自衛のための戦争」という国家の論理に回収されてしまうものではないでしょうか。

 

それはどの戦争も常に「自衛」を大義としてきた歴史からも明らかだと思います。

 

憲法9条は日本人を戦争からまもる、そのためだけのためにあるのではなく、植民地支配と侵略戦争によって苦しみを与えた人々に対する約束のはずであったことを忘れてはなりません。

 

今日からオリンピックが始まりました。

多くのひとびとが、日の丸を背負った選手のメダルを期待しているのかもしれません。

そうやってアスリートたちが国家の名誉をかけて競い合う姿にもりあがる人々が溢れかえるときに、私がみなさんに思いを寄せて欲しいのは、既に東京オリンピックのために住む場を奪われ、その生存権が脅かされている野宿者のひとたちの存在です。

 

また<国家の役に立たないものは生きる価値がない>というとんでもない思想のもとその命が奪われた19名のひとたちと、命こそはとりとめても心身を深く傷つけられたひとびとの存在です。

“とんでもない思想”と言いましたが、この思想は私たちの生きるこの日本社会にまさに蔓延っている思想であり、私たちはそのような能力主義、優生思想、障害者差別社会に日々影響されながら生きているということ、そのような国家の意思に従いながら国家のために生き、国家のために殺し、国家のために死ぬ主体へと日々つくられていっていることを自覚し、これを唾棄しなくてはなりません。

 

殺し合う世界ではなく、ともに生きていくための世界、誰かの犠牲のもとに享受する偽の平和ではなく、ひととひとが対等にあれ、真に平和な社会のためにともに歩んでいきましょう。

 

 

シュプレヒコール

ひのまるをー やこう、やぶこう もやそうよー

 

きみがよをー ながすのやめろ うたわんぞー

 

てんのうせい さべつのこんげん なくそうよー

 

アキヒトのー ぎょくおんほうそう ナンセンスー

 

やすくにはー ぐんじしせつだ つぶそうよー

 

にゅうかんはー さつじんしせつだ つぶそうよー

 

べいぐんのー おしつけゆるさん おきなわへー

 

べいぐんはー せかいのどこにも いらないぞー

 

じえいたいー にほんのぐんたい なくそうよー

 

ぶき、げんぱつー ゆしゅつするのは さつじんざいー

 

ちょうせんのー てきしをやめろ いますぐにー

 

こくせきでー ひとのいきかた せばめるなー

 

はいししよー さべつをうみだす こせきせいどー

 

やめにしよー はいじょのさいてん オリンピックー

 

 

♪(レのはちぶおんぷ)

 

おととい 8がつ 6にち に でも を しました。

きょうとし は 37℃ まで きおん が たかまった もうしょび でした。 なつばあまり に あつい なか での でも は しんどすぎる と じぜん に ゆうりょ し、この ひ は ゆうがた の 7じ と すこしばかり すずしく なった ころ から すたーと し、 きょうとし の はんかがい を 1じかんいじょう かけて あるきました。

こんかい は ひろしま に げんばく が とうか された 8.6 と いう ひ のいみ も こめて、 すぴーち を かんがえました。 その さい に この かん に あった さまざま な こと を おもいました。 さんいんせん、 とちじせん、 たかえ での きどうたい による ぼうりょく、 さがみはら での じけん、 おりんぴっく、 あきひと の ぎょくおんほうそう します せんげん… ほか にも たくさん… なんか むね が くるしく なる こと だらけ で、 あれ も これ も いいたい こと だらけ です。 しかし でも の すぴーち と いう かたち で はたして どこまで の こと が もりこめるか、 つなげて いけるだろうか と なやみ ながら かいて みたら、 けっきょく けっこう ながく なりました。 けずった ほう が いいかな、 と かんがえ も しました が ながい すぴーち の まま のこしました。 えんどう の ひとたち に しゅちょう の ぜんたいぞう を つたえる には ながすぎる すぴーち は ふてきとう な すたいる なの かもしれません が、 さまざま に おこっている くるしい こと を つなげて いく ことば を つむぎたかった し、 ぶぶんてき に しか きいて もらえなくても そこから なにか が つたわって ほしい という きもち で せいいっぱい うったえました。 しゅぷれひこーる は 2ねんぶり(?) に はいく すたいる で ぎんじ ました。

なかなか、 よい かんじ でしたよ。

 

すぴーち(としゅぷれひこーる)、 ぜひ よんで みて くださいね。

 

(すぴーち)

この じき に なると まいとし、 がっこうきょういく を とおして で あったり てれび や しんぶん の とくしゅう を とおして で あったり、 あるいは ちいき の しみんしゅうかい を とおして など、 さまざまな ば で、さまざまな かたち で 「げんばく の ひげき を、 せんそう の ひさんさ を わすれては ならない、 くりかえしては ならない」と いわれます。 

そのとおりだ と おもいます。 わたしたち は それ を けっして わすれて は ならないし、 くりかえして は なりません。

 

 しかし わたしたち は はたして ほんとう に そのように 「せんご」を あゆんで きた と いえるでしょうか?

 

げんばく の ひげき、 せだい を こえて つづく ひばく の おそろしさ を しっていた はず なのに、 せんご、 げんぱつ を ちほう に おしつけ、 げんぱつ ろうどうしゃ を ひばく に さらし、 その せい を むしばみ つづけて いる こと に たいして、 さまざま な とうそう が ありながら も わたしたち の おおく は め を そむけて きました。 そして ついには ちぇるのぶいり いらい もっと も しんこく な げんぱつじこ を ひきおこして しまいました。

すで に おきている けんこうひがい と ながい しょうらい を かけて おきるで あろう さらなる ひがい に たいして も じゅうぶん な こと が なにも できておらず、 じこしゅうそく も ままならない にも かかわらず せんだいげんぱつ を さいかどう させて しまった だけ で なく、 いかた げんぱつ も らいしゅう 11にち には さいかどう と ほうどう されて います。ま た そんな げんぱつ を じこご も にほん は せかい に ゆしゅつ して も います。

げんぱつ に とどまらず、 にほん の 「せんご」 は にちべい ぐんじ どうめい に より あめりか の 「かくのかさ」の もと に あること を うけいれて きて しまって も います。

 

また、 にど と せんそう を しない と ちかった はず なのに、 まさに その にちべい ぐんじ どうめい の もと に あめりか の しんりゃくせんそう に せっきょくてき に かたん して も きました。

にほん の はいせんご から わずか 5ねんご の 1950ねん に はじまる ちょうせんせんそう に おいて は げんざい の じえいたい の ぜんしん と なる けいさつよびたい が そしきされ さいぐんびか の あしがかり と しました。 べとなむせんそう では おきなわ の かでなきち から せんとうき が とびたち、 そのご も わんがんせんそう、 いらくせんそう と にほん は つねに せんそう に かかわって きました。

そのような 「せんご」 にほん の せんそう の れきし、 その ときどき で はんせんうんどう も ありましたが、 それ を とめる こと が できなかった その あと に なると わたしたち の おおく は そんな れきし を すっかり わすれて しまった かの よう に も おもえます。

 

いまや おおく の ひと が 「せんそう は いやだ」、 「へいわ が よい」 とおもっている に も かかわらず、 さき の さんいんせん に おいても、 げんぱつ すいしん せいさく を やめず、 せんそうほう を ぼうりょくてき に かけつ させ けんぽうかいあく を めざす よとう は さらに ぎせき を ふやしました。 とうきょうと の しんちじ には かくぶそうろん も はいじょ せず、 はいがいしゅぎ を せんどう する きょくうせいじか の こいけゆりこさん が たいさ を つけて えらばれ ました。

 

どうやって わたしたち は このよう な じょうきょう を ゆるして しまう にいたった の でしょうか?

 

それ は わたしたち の おおく が げんぱつ も べいぐんきち も それぞれ ちほう に、 おきなわ に、 と おしつけて そこで おこる むじゅん と ぼうりょく を はらみながら まわっていた しゃかい を 「へいわ」 や 「せんごみんしゅしゅぎ」 と よんできた から で は ないでしょうか?

 

あるいは、 にちべいぐんじどうめい の もと かそうてき と して ちょうせん の きょうい が あおられ、 ちょうせん に たいする せいさい が どれだけ つづこうと、 そして その いっかん と して こくない の ちょうせんじん に たいする さべつ と だんあつ が こくさく と して まかりとおって いても、 ほとんど だれ も みむき も しなかった から で は ないでしょうか。 おきなわ の へのこ で、 たかえ で しんきち・へりぱっど けんせつ を きょうこう する ために いま も まさ に おきている にほんこっか に よる むきだし の ぼうりょく を ひとごと に してきた から で は ない でしょうか? ひぼうりょく の こうぎ を つらぬく ひとびと に たいする かいほ に よる ぼうりょく、 きどうたい に よる ぼうりょく は すで に いつ ししゃ を だして も おかしくない だんかい に まで きています。

 

また、 おきなわ の いたるところ に べいぐんきち が あること で おきてきた かずかず の ぼうりょく を ひとごと に してきた から で は ない でしょうか? 

 

おきなわ に かぎらず、 みぢか な ところ では きょうたんご の うかわちく に も べいぐん の Xばんどれーだーきち が けんせつ され 2014ねん まつ から れーだー が かどう しています。 じもと じゅうみん の かはんすう の はんたい の こえ が ありながら きち が つくられて いこう、 すで に べいぐんかんけいしゃ に よる かずおおく の じんしんじこ が おき、 れーだー から はっせい される でんじは や じぇねれーたー から なる ていしゅうはおん など に よる けんこうひがい を うったえる こえ、 ふあん の こえ が ある に も かかわらず、 ゆうこう な たいさく も こうじず じゅうみん に ぎせい を しいて います。 

その きょうたんご うかわ から きこえて くる こえ を きょうとし に も とどけよう と がいとう で うったえても まだまだ かんしん が うすく ひとごと と して とらえられて いる こと を つよく かんじて います。 

 

いつからか 「はんせん」 「へいわ」 を もとめる こえ は 「ひがい の きおく」、 それ も とく に とし に すむ、 <にほんじん やまと> の 、だんせい の 、けんじょうしゃ に とって の 「ひがい の きおく」 だけ に いきょ する ように なって しまった よう に おもいます。

 

ひろしま、 ながさき への げんばくとうか に よって ひばく した の は にほんじん だけ で なく きゅうしょくみんち から きた 7まんにん あまり の ちょうせんじん が ひばく し、 4まんにん あまり が いのち を うしなった と いわれて います。 また おなじく にほん の しょくみんち で あった たいわん の ひとびと、 そのほか の あじあ から の りゅうがくせい や おらんだ、 あめりか、 いぎりす から の ほりょ と なっていた ひとたち が ひばく した こと も あきらか に なっています。 

この ひとたち の おおく は せんご も ながらく げんばくえんごほう の しんせい が できなかったり、 しんせいして も きゃっか されて しまう という じょうきょう が こんにち まで つづいて います。 

 

<にほんじん やまと> の 「ひがい の きおく」 のみ に いきょ して となえられる 「はんせん」 「へいわ」 で あっては、 ふたたび <だいじ な ひと を まもる ため>、 <「こくみん」 を まもる ため>、 ひいては <くに を まもる ため>、 と いう 「じえい の ため の せんそう」 と いう こっか の ろんり に かいしゅう されて しまう もの では ないでしょうか。

 

それ は どの せんそう も つねに 「じえい」 を たいぎ と してきた れきし から も あきらかだ と おもいます。

 

けんぽう9じょう は にほんじん を せんそう から まもる、 その ため だけの ためにある の では なく、 しょくみんちしはい と しんりゃくせんそう に よって くるしみ を あたえた ひとびと に たいする やくそく の はず で あった こと を わすれて は なりません。 

 

おりんぴっく が はじまりました。

おおくの ひとびと が、 ひのまる を せおった せんしゅ の めだる を きたい している の かも しれません。

そうやって あすりーと たち が こっか の めいよ を かけて きそいあう すがた に もりあがる ひとびと が あふれかえる とき に、 わたし が みなさん に おもい を よせて ほしい のは、 すで に とうきょうおりんぴっく の ため に すむ ば を うばわれ、 その せいぞんけん が おびやかされて いる のじゅくしゃ の ひとたち の そんざい です。

 

また <こっか の やく に たたない もの は いきる かち が ない> と いう とんでもない しそう の もと その いのち が うばわれた 19めい の ひとたち と、 いのち こそ は とりとめて も しんしん を ふかく きずつけられた ひとびと の そんざい です。

“とんでもない しそう” と いいましたが、 この しそう は わたしたち の いきる この にほんしゃかい に まさに はびこっている しそう で あり、 わたしたち は そのよう な のうりょくしゅぎ、 ゆうせいしそう、 しょうがいしゃさべつ しゃかい に ひび えいきょう されながら いきている と いうこと、 そのような こっか の いし に したがい ながら こっか の ために いき、 こっか の ために ころし、 こっか の ために しぬ しゅたい へと ひび つくられて いっている こと を じかく し、 これ を だき しなくて は なりません。

 

ころしあう せかい で は なく、 とも に いきていく ため の せかい、 だれか の ぎせい の もと に きょうじゅ する にせ の へいわ で は なく、ひと と ひと が たいとう に あれ、 しん に へいわ な しゃかい の ために とも に あゆんで いきましょう。

 

 

シュプレヒコール

ひのまるをー やこう、やぶこう もやそうよー

 

きみがよをー ながすのやめろ うたわんぞー

 

てんのうせい さべつのこんげん なくそうよー

 

アキヒトのー ぎょくおんほうそう ナンセンスー

 

やすくにはー ぐんじしせつだ つぶそうよー

 

にゅうかんはー さつじんしせつだ つぶそうよー

 

べいぐんのー おしつけゆるさん おきなわへー

 

べいぐんはー せかいのどこにも いらないぞー

 

じえいたいー にほんのぐんたい なくそうよー

 

ぶき、げんぱつー ゆしゅつするのは さつじんざいー

 

ちょうせんのー てきしをやめろ いますぐにー

 

こくせきでー ひとのいきかた せばめるなー

 

はいししよー さべつをうみだす こせきせいどー

 

やめにしよー はいじょのさいてん オリンピックー

 

 

♪(レのはちぶおんぷ)