2がつ28にち、デモほうこく

(2つめ、 かんじ つかってません)

 

こんにちは。おひさしぶりです。

先日、2月28日に京都市の繁華街をデモしましたので、その報告です。

この日はとても陽気でデモにぴったりな日でした。

みなさん、きっとご存知のように朝鮮の人工衛星発射にともなって日本も独自制裁を強化するということで、制裁に基づく朝鮮総連関連施設や個人に対する強制捜査、不当逮捕といった政治弾圧が相次いでいたので、その問題を中心に訴えました。

 

(スピーチ)

朝鮮民主主義人民共和国人工衛星を発射したことをもって日本はそれを「事実上のミサイル」として報じ、日本にとって大きな脅威であるかのように煽り、独自の制裁を強化するなどとしています。先日、朝鮮商工会に強制捜査がなされ、また貿易を営む在日朝鮮人が朝鮮への輸出という「容疑」によって逮捕される事件もありましたが、これも朝鮮敵視政策にもとづく在日朝鮮人への政治弾圧の一環です。文科省地方自治体に対し朝鮮学校への補助金を見直すよう圧力もかけています。

朝鮮敵視政策によって在日朝鮮人を「敵国民」と規定し差別・弾圧がまかり通ることを許すことで、国内の排外主義はより強固になっています。

みなさんは、日本は「平和国家」で「民主的」な国だから日本の軍事力は自分たちを守るためだけの安心なものであり朝鮮は危険な国でなにをしでかすかわからない、そんなふうに考えているひとたちもいるかもしれません。しかし、大事なのは日本こそが東アジア、ひいては世界にとっての脅威になっているということです。日本単独でも自衛隊、つまり日本軍という大きな軍事力を有しているにとどまらず、アメリカとの軍事同盟のもと、侵略に加担してきました。

侵略してきたのは、戦前のみならず戦後においても、その実績があるのは朝鮮ではなく日本のほうであるということを忘れてはいけません。

朝鮮敵視政策、制裁に反対しましょう。“

 

だいたいこんな感じのことをスピーチし、シュプレヒコールもあげながら元気にデモ行進していたのですが、今回も警察が邪魔ばかりしてきます。

私たちを左端に押し込めようとしてくるのですが、そんなときは毎回、デモの参加者みなで「デモは自由だ!」「警察は邪魔するな!」と抗議をします。参加者が一丸となって抗議すれば小さいデモであろうと、警察も邪魔を続けることをあきらめざるを得ない状況を作ることが可能であるということを私たちは既に経験から学んでいます。

参加者のなかで、もし誰かが警察から嫌がらせを受けていたら、その場でデモを止めてみんなで抗議することがとても大事だと思いますし、現場でそれができないとデモの自由はいつまでも広がらないし、私たちは弱められる一方だと思います。

 

私たちの訴えの中身が理由なのか、邪魔してくる警察への抗議のためにデモがなかなか進まず余計に渋滞するからなのか、理由はいろいろなのでしょうが、今回も沿道からは冷たい視線や暴言といった憎悪を向けられつつ、ごくたまに応援の声(!)もあるという感じです。日本社会では圧倒的多数にとっては耳障りが悪いであろうことを叫んでいる自覚はあるので、むしろ憎悪向けられてナンボノモンと開き直っている部分もあります。ほんとうに「理解」が欲しいだけなら別のやり方を考えるのかもしれませんが、たぶん、「理解」を求めるかたちを取りながらも、「理解」以前にまずそこにある敵対線に気付いてほしくて叫んでいるのかもしれないな、と繁華街の憎悪を浴びながら考えました。

♪(レのはちぶおんぷ)

 

*****かんじ、つかってません*****

 

こんにちは。おひさしぶりです。

せんじつ、にがつ にじゅうはちにち に きょうとし の はんかがい を でも しましたので、その ほうこく です。

この ひ は とても ようき で でも に ぴったり な ひ でした。

みなさん、きっと ごぞんじ の ように ちょうせん の じんこうえいせい はっしゃ に ともなって にほん も どくじせいさい を きょうかする と いうこと で、せいさい に もとづく ちょうせんそうれん かんれんしせつ や こじん に たいする きょうせいそうさ、ふとうたいほ と いった せいじだんあつ が あいついで いたので、その もんだい を ちゅうしん に うったえました。

 

(すぴーち)

“ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく が じんこうえいせい を はっしゃ した こと を もって にほん は それ を 「じじつじょう の みさいる」 として ほうじ、にほん に とって おおきな きょうい で あるかの ように あおり、 どくじ の せいさい を きょうか する などと しています。せんじつ、 ちょうせんしょうこうかい に きょうせいそうさ が なされ、また ぼうえき を いとなむ ざいにちちょうせんじん が ちょうせん への ゆしゅつ という 「ようぎ」 に よって たいほ される じけん も ありましたが、これ も ちょうせんてきしせいさく に もとづく ざいにちちょうせんじん への せいじだんあつ の いっかん です。もんかしょう は ちほうじちたい に たいし ちょうせんがっこう への ほじょきん を みなおす よう あつりょく も かけています。

ちょうせんてきしせいさく に よって ざいにちちょうせんじん を 「てきこくみん」と きてい し さべつ・だんあつ が まかりとおる こと を ゆるすこと で、 こくない の はいがいしゅぎ は より きょうこ に なっています。

みなさんは、 にほん は 「へいわこっか」 で 「みんしゅてき」 な くに だから にほん の ぐんじりょく は じぶんたち を まもる ため だけ の あんしん な もの であり ちょうせん は きけん な くに で なに を しでかすか わからない、 そんな ふう に かんがえている ひとたち も いるかも しれません。しかし、 だいじなの は にほん こそ が ひがしあじあ、 ひいては せかい に とって の きょうい に なっている という ことです。にほん たんどく でも じえいたい、つまり にほんぐん という おおきな ぐんじりょく を ゆうしている に とどまらず、 あめりか との ぐんじどうめい の もと、しんりゃく に かたん して きました。

しんりゃく してきたのは、せんぜん のみ ならず せんご に おいても、その じっせき が あるのは ちょうせん ではなく にほん の ほう である という こと を わすれて は いけません。

ちょうせんてきしせいさく、 せいさい に はんたい しましょう。“

 

だいたい こんな かんじ の こと を すぴーち し、しゅぷれひこーる も あげながら げんき に でもこうしん していた の ですが、 こんかい も けいさつ が じゃま ばかり してきます。

わたしたち を ひだりはし に おしこめよう と してくる の ですが、 そんなとき は まいかい、でも の さんかしゃ みな で 「でも は じゆう だ!」「けいさつ は じゃま するな!」と こうぎ を します。 さんかしゃ が いちがん と なって こうぎ すれば ちいさ な でも で あろうと、 けいさつ も じゃま を つづける こと を あきらめざる を えない じょうきょう を つくる こと が かのう である ということ を わたしたち は すでに けいけん から まなんで います。

さんかしゃ の なかで、 もし だれか が けいさつ から いやがらせ を うけて いたら、そのば で でも を とめて みんな で こうぎ する ことが とても だいじだ と おもいますし、 げんば で それ が できないと でも の じゆう は いつまでも ひろがらないし、 わたしたち は よわめられる いっぽうだ と おもいます。 わたしたち の うったえ の なかみ が りゆう なのか、 じゃま してくる けいさつ へ の こうぎ の ために でも が なかなか すすまず よけい に じゅうたい するから なのか、 りゆう は いろいろ なのでしょうが、 こんかい も えんどう から は つめたい しせん や ぼうげん と いった ぞうお を むけられつつ、 ごく たまに おうえん の こえ(!) も ある という かんじ です。 にほんしゃかい で は あっとうてき たすう に とって は みみざわり が わるい で あろうこと を さけんで いる じかく は あるので、 むしろ ぞうお むけられて ナンボノモン と ひらきなおって いる ぶぶん も あります。 ほんとう に 「りかい」 が ほしい だけなら べつ の やりかた を かんがえる の かも しれませんが、 たぶん、「りかい」 を もとめる かたち を とりながらも、「りかい」 いぜん に まず そこ に ある てきたいせん に きづいて ほしくて さけんで いる の かもしれないな、 と はんかがい の ぞうお を あびながら かんがえました。

 

♪(レのはちぶおんぷ)