3月18日デモ報告*3がつ 18にち でも ほうこく
**2つめは かんじ なし**
はんにちわ。春っぽくなってきましたね。
デモ中、私たちを囲む警察に向かって「おつかれさまです!」
こちらの反日メッセージがしっかり伝わっていたようでなによりで
小さなデモですけど、
沿道からの一部熱い反応とは逆に今回は警察はなんとなく冷め切っ
警察の妨害に抵抗していると「警察は敵ではない」とか「そこ、
さて、デモのスピーチとシュプレヒコールも紹介しておきますね。
最近、
アレもコレも言いたい、言わなきゃ!
まぁ、
(スピーチ)
○○通りを語通行中のみなさん。
最近、テレビをつけてみれば森友学園の話か、
森友学園が運営する塚本幼稚園の映像をみたとき、
教育勅語を唱和させられ、「安倍総理頑張ってください」
このようなものが「教育」
しかし、考えてほしいのは、
日本全国の学校では、教員、生徒たちが侵略の象徴である「
社会化教育においては帝国主義的な領土意識を植え付けようとして
皇国臣民化教育は戦前だけのものでもなければ、
学校だけではありません。家庭でテレビをつければ「日本すごい!
そうです。森友学園は、
だからこそ、森友学園的なものを唾棄していくためには、
森友学園に対する著しく不適切な厚遇に対して全国の朝鮮学校が置
2010年度以来ずっと高校無償化からは除外され続け、
朝鮮学校は植民地支配によって日本に生活するようになった在日朝
朝鮮学校が差別・弾圧されてきたことの根本的な理由は、
朝鮮についてはメディアはもっぱら金正男氏殺害についてばかり取
3月1日に始まり4月末まで続く米韓合同軍事演習は、
またこの軍事演習に含まれる「作戦計画5030」
規模においても、そして作戦の内容においても、
日本では朝鮮の弾道ミサイル実験や核実験についてはそれを差し迫
昨年、11月には日韓秘密軍事情報保護協定が結ばれ、
私たちは、軍事化するこの日本社会に抵抗し、
(シュプレヒコール)
・廃止しよう 差別の根源 天皇制!
・「陛下」とか 「様」「様」つけるの やめましょう!
・祝う日は 自分で決めるぞ 休日も!
・天皇の 戦争責任 無視するな!
・「国民」に 統合されるの 拒否しよう!
・日の丸を 焼こう、破こう 降ろそうよ!
・君が代を 流すのやめろ 歌わんぞ!
・入管は 殺人施設だ つぶそうよ!
・米軍の 押しつけ許さん 沖縄へ!
・警察は 自由なデモを 邪魔するな!
・自衛隊 日本の軍隊 なくそうよ!
・朝鮮の 敵視をやめろ 今すぐに!
・国籍で ひとの生き方 せばめるな!
・廃止しよう 差別をうみだす 戸籍制度!
・やめにしよう 排除の祭典 オリンピック!
**かんじ つかって いません**
はん に ちわ。 はるっぽく なって きました ね。 3 つき 18 ひ に でも を しました よ。
いつも の よう に きょうとし の はんかがい を いちじかん ほど かけて あるきました。
でもちゅう、 わたしたち を かこむ けいさつ に むかって 「お つかれさま です!」 と こえ を かけ けいれい の ぽーず (!) を とる ひと や、 ないよう は ききとれなかった けど なん やら でもたい に どなって くる ひと など いました。
こちら の はんにち めっせーじ が しっかり つたわって いた よう で なに より です。
ちいさな でも です けど、 いつも それなり に えんどう から の ちゅうもく を あつめます し、 つづける こと は だいじ だ な と おもいます。
えんどう から の いちぶ あつい はんのう と は ぎゃく に こんかい は けいさつ は なんとなく さめきって いた よう な かんじ でした。 でもたい にたいして 「ひだり に よって」 と じゃま を して くる こと は ありました が、 それほど はげしく は なく、 もしか したら けいさつ も 「あんま はげしく いうと こい つら よけい に ていこう して くる」 と そろそろ がくしゅう した の かも しれません。 その しんぎ は わかりません が、 じゆう な でも にたいする けいさつ から の ぼうがい にたいして は その つど みな で ていこう して いくという の は ほんとうに だいじ な こと だ と おもいます。
けいさつ の ぼうがい に ていこう して いると 「けいさつ は てき で は ない」 とか 「そこ、 がんばる ところ ちゃう」 みたい な こと を いう ひと が たま に います。 しかし、 きょう、 ひだり に ちぢめられたぶん だけ、 それ が あした から の 「あたりまえ」 に されて しまいます。 その ちぢめられたぶん は てばなして しまった わたしたち の じゆう、 ていこう する ちから だ と おもいます。 ならば、 まさに ここ で ふんばって ていこう して、 ちぢめさせない こと こそ とても だいじ だ と おもいません か?
さて、 でも の すぴーち と しゅぷれひこーる も しょうかい して おきます ね。
さいきん、 でも の たび に どんどん すぴーち が ながく なって いって おります。 いっしょ に でも を あるいた ひとたち を のぞいて、 さいしょ から さいご まで きいて くれた ひと は たぶん いない ん じゃ ない かしら ・ ・ ・ (と おもったら けいさつ が いました ね。 )
あれ も これ も いいたい、 いわなきゃ!と おもって すぴーち を つくって いると つい どんどん ながく なっちゃ います。 でも と いうより がいとう すぴーちむけ な の かも しれません が、 たいそう てれやさん の わたし として は いちかしょ に とまって しゃべりつづけるより しゃべりながら つねに さって いく でも の ほう が あってるなぁ、 なんて おもったり も。
まぁ、 いいたい こと は できるだけ いいつくそう という きもち で やって おります。 そもそも しゃかい うんどう ぜんたい が うけいか して” しんぐるいしゅー” ろせん が もてはやされる なか で、 「どんどん いい がたく されて いく こと が ふえて いる!」 という おもい から ことこと でも は しゅっぱつ して いるから、 この ちょうし で つづけて いきたい と おもいます ー。
(すぴーち)
○ ○ とおり を かたり つうこうちゅう の みなさん。
さいきん、 てれび を つけて みれば もりとも がくえん の はなし か、 ちょうせん の きむ まさおし さつがい について の こと が ほとんど を しめて いる よう な ひび です が、 みなさん は どの よう に ごらん に なって いるでしょう か。
もりとも がくえん が うんえい する つかもと ようちえん の えいぞう を みた とき、 たしか に むね が すくむ よう な かんかく に なりました。
きょういく ちょくご を しょうわ させられ、 「あべ そうり がんばって ください」 と えんじたち が こえ を そろえる えいぞう に どぎも を ぬかれた かたがた も おおい の で は ないでしょう か。
この よう な もの が 「きょういく」 として まかりとおって いい はず は とうぜん ありません。 これ は ぎゃくたい である と わたし は おもいます。
しかし、 かんがえて ほしい の は、 こうした せんぜん かいき と も いえる げんしょう は なに も つかもと ようちえん に かぎった こと で は ない という こと です。 じつは この よう な げんしょう は にっぽん ぜんこく の がっこう げんば において、 また がっこう に かぎらず にっぽん しゃかい の すみずみ に まで いきわたって います。
にっぽん ぜんこく の がっこう で は、 きょういん、 せいとたち が しんりゃく の しょうちょう である 「ひのまる」 を まえ に きりつ、 てんのう さんび の 「きみがよ」 を せいしょう する こと を きょうよう されつづけて きて、 それに ていこう して たたかう きょういんたち の おおく が しょく を うしなうに いたって います。
しゃかいか きょういく において は ていこく しゅぎてき な りょうど いしき を うえつけよう と して おり、 れきし きょういく は しょくみんち しはい ・ しんりゃく せんそう にたいする はんせい を うしなって じこく ちゅうしん しゅぎ へ の かたより を つよめて います。 また どうとく の きょうかか が けってい し しょうがっこう で は 2018 ねんど から、 ちゅうがっこう で 2019 ねんど から じっし されます が、 それ が こじん の きほんてき じんけん より も、 それ を よくあつ する こっか と それ が しく しゃかい きはん を ゆうせん させ、 なしょなりずむ を あおる もの である こと は うたがい ない こと です。
こうこく しんみんか きょういく は せんぜん だけ の もの で も なけれ ば、 もりとも がくえん の せんばい とっきょ で も ない の です。
がっこう だけ で は ありません。 かてい で てれび を つければ 「にっぽん すごい!」 と じこく を ほめちぎる ばんぐみ の おんぱれーど であり、 その なか に は ろこつ な がいこくじん けんお に みちた ばんぐみ も そう めずらしい もの で は なくなって います。
そう です。 もりとも がくえん は、 この にっぽん しゃかい の げんじょう において かげき な ほう で は ある の かも しれない けれど、 ざんねん ながら、 それ は けっして いたん で は なく、 たんに この しゃかい に はびこる にっぽん ちゅうしん しゅぎ を より じゅんか した という いみ において じつづき の もの である という こと を わたしたち は いしき しない わけ に は いけません。
だからこそ、 もりとも がくえんてき な もの を だき して いく ため に は、 この にっぽん しゃかい ぜんたい が すでに おちいって いる この はいがいてき な にっぽん ちゅうしん しゅぎ の じょうきょう にたいして こんぽん から むきあいかえて いく ひつよう が ある の で は ないでしょう か。
もりとも がくえん にたいする いちじるしく ふてきせつ な こうぐう にたいして ぜんこく の ちょうせん がっこう が おかれて いる しょぐう と を こんとらすと に すると より あざやか に にっぽん という しゃかい の ありかた が うつしだされます。
2010ねんど いらい ずっと こうこう むしょうか から は じょがい されつづけ、 こっかぐるみ の さべつ は ちほうじちたい に まで ひろがり、 それ まで きょしゅつ されて いた ほじょきん すら ていし に ふみきった じちたい が ふえつづけて います。 その なか に は ほじょきん しきゅう の じょうけん に ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく や ちょうせんそうれん と の かんけい を たつ こと を せまったり、 らち もんだい について あつかう こと を ようきゅう するなど ろこつ な きょういく かいにゅう を して くる こと も あります。
ちょうせん がっこう は しょくみんち しはい によって にっぽん に せいかつ する よう に なった ざいにち ちょうせんじん が そこく かいほうご、 こどもたち に ちょうせん の ことば や ちり、 れきし を おしえよう と じりき で つくって きた もの です。 どれ も にっぽん の しょくみんち しはい によって まなぶ きかい が うばわれた こと であり、 ほんらい なら ば にっぽん の せきにん において ほしょう されなけれ ば ならない みんぞく きょういく です。 また その よう な れきしてき けいい に よらず とも みんぞくてき まいのりてぃ にたいする みんぞく きょういくけん は きほんてき じんけん として ほしょう されなけれ ば ならない もの です が、 にっぽん は ほしょう は おろか、 せっきょくてき に ちょうせん がっこう にたいして さべつ ・ だんあつ を くわえて きました。
ちょうせん がっこう が さべつ ・ だんあつ されて きた こと の こんぽんてき な りゆう は、 ちょうせん がっこう こそ が にっぽん の しょくみんち しはい ・ しんりゃく せんそう の れきし、 また その せきにん を とって こなかった 「せんご」 にっぽん の ありかた を こくはつ する そんざい である から に た なりません。 その ちょうせん がっこう の きょういく を 「はんにち きょういく」 と よび さべつ ・ だんあつ しながら、 しょくみんち しはい ・ しんりゃく せんそう の れきし に め を そむけ、 せんそう で こっか の ため に ころし ・ ころされる しゅたい として の 「こくみん」 を つくりだす きょういく を 「あいこく きょういく」 として しょうよう して きた こと が もりとも がくえん の もんだい の ほんしつ であり にっぽん しゃかい ぜんたい の もんだい である と おもいます。
ちょうせん について は めでぃあ は もっぱら きむ まさおし さつがい について ばかり とりあげるばかり で、 だんどう みさいる じっけん や かく じっけん と あわせて きょうい を あおりつづけて います が、 では ちょうせん が なぜ だんどう みさいる じっけん や かく じっけん に ふみきる の か その はいけい を ちゃんと ほうどう して いる めでぃあ は ほぼ かいむ です。
3つき 1 ひ に はじまり 4 げつまつ まで つづく べい かん ごうどう ぐんじ えんしゅう は、 かこ さいだい きぼ として べい かん りょうぐんけい 31 ばん 7 せんにん が さんか した さくねん の ぐんじ えんしゅう を さらに うわまわる しじょう さいだい きぼ で じっし されて おり、 きむ ただし おん いいんちょうら ようじん の あんさつ や ゆうかい を ふくむ ちょうせん へ の せんせい こうげき も しや に いれた もの です。 さーど みさいる の はいび を かてい した えんしゅう も じっし されます。
また この ぐんじ えんしゅう に ふくまれる 「さくせん けいかく 5030」 と よばれる さくせん は、 ちょうせん の ぴょんやん じょうくう を べいぐん の すてるす せんとうき で ひこう する かのうせい が あり、 ばあい によって は りょうくう しんぱん によって そのまま じっさい の せんとう こうい に はってん しかねない ちょうはつ こうい だ と いえます。
きぼ において も、 そして さくせん の ないよう において も、 べい かん ごうどう ぐんじ えんしゅう は、 いつ じっせん に いこう して も おかしく ない もの だ という こと です。 また この せんそう えんしゅう に さんか して いる べいぐん すてるす せんとうき F-35B は おきなわ の ふてんま ひこうじょう、 かでな きち から はけん された もの です。 つまり にっぽん も かんせつてき に かたん して いる の です。
にっぽん で は ちょうせん の だんどう みさいる じっけん や かく じっけん について は それ を さしせまった きょうい である として、 その ぼうえい の ため なら ば と にち べい あんぽ も、 じえいたい も、 せんそうほう も、 なん でも かんで も ゆるして きて しまって います が、 あっとうてき な ぐんじりょく を とうじて ていきてき に じっし される べい かん ごうどう ぐんじ えんしゅう や、 たい ちょうせん を じく に した ひ ・ べい ・ かん による ぐんじてき ちゅうたい が ちょうせん に あたえて いる きょうい を わたしたち は そうぞう すべきで は ないでしょう か。 ちょうせん による きょうい を りゆう として、 ますます ぐんじか に はくしゃ が かかる この しゃかい は おきなわ に ぎせい を しいつづけ、 ざいにち ちょうせんじん へ の さべつ ・ だんあつ を ゆるしつづけて きました。 また きょうとし に くらす かたがた に は ぜひ もっと かんしん を もって ほしい の です が、 にご に は きんき ちほうはつ と なる べいぐん きち が せっち され そこ に はいび された X ばんど れーだー が うんよう されて から すでに 2 とし いじょう が たちます が、 れーだー から はっせられる きょうりょく な でんじは、 はつでんき から の そうおん、 そして べいぐん かんけいしゃ による 40 けん を こえる こうつう じこ など ちいき の ひとびとの あんぜん と あんしん を おびやかしつづけて います。
さくねん、 11 つき に は にち かん ひみつ ぐんじ じょうほう ほご きょうてい が むすばれ、 にち かん の ぐんじてき ちゅうたい が きょうか され、 こんご、 これ まで じつげん しなかった にち かん そして にち べい かん を ふくむ ごうどう ぐんじ えんしゅう も げんじつみ を おびて きました。 そう なれば この ちいき の きんちょう は さらに たかまる こと に なり、 へいわ と は ますます ぎゃっこう して いきます。 そして、 この にち かん、 にち べいかん の ぐんじてき れんたい の ため に ぎせい に された ひとびとが にっぽんぐんせい どれいせい の ひがい じょせいたち です。 にち かん の ぐんじてき れんたい を きょうか するにあたって しょうへき と なって きた しょくみんち しはい に はじ を はっする もんだい の なか で も、 もっとも おおきな けんあん であった いわゆる 「じゅうぐん いあんふ」 もんだい を せいふ れべる で ごういん に かいけつ しよう と した けっか が 2015 とし 12 つき 28 ひ に かわされた 「ごうい」 です。 この ひがい じょせい の いこう を むし して、 とうじしゃ ふざい の まま せいふかん で かわされた ごうい によって、 そもそも しょくみんち しはい と せんそう の ろんり の した で その きずつけられた じょせいたち が、 ふたたび、 ぐんじ ・ せんそう の ろんり によって その そんげん が きずつけられた の です。
わたしたち は、 ぐんじか する この にっぽん しゃかい に ていこう し、 しょくみんち しはい と しんりゃく せんそう へ の しんし な はんせい と ほしょう を もとめつづけます。
(しゅぷれひこーる)
・ はいし しよう さべつ の こんげん てんのうせい!
・ 「へいか」 とか 「よう」「よう」 つけるの やめましょう!
・ いわう ひ は じぶん で きめるぞ きゅうじつ も!
・ てんのう の せんそう せきにん むし するな!
・ 「こくみん」 に とうごう される の きょひ しよう!
・ ひのまる を やこう、 やぶこう おろそう よ!
・ きみがよ を ながす の やめろ うたわん ぞ!
・ にゅうかん は さつじん しせつ だ つぶそう よ!
・ べいぐん の おしつけ ゆるさん おきなわ へ!
・ けいさつ は じゆう な でも を じゃま するな!
・ じえいたい にっぽん の ぐんたい なくそう よ!
・ ちょうせん の てきし を やめろ いま すぐ に!
・ こくせき で ひと の いきかた せばめるな!
・ はいし しよう さべつ を うみだす こせき せいど!
・ やめ に しよう はいじょ の さいてん おりんぴっく!