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あおぞら てんじ

はんにちわ!
毎度毎度、路上から日帝の悪さをお伝えしている私たちですが、
秋だしね、たまには立ち止まって(立ち止まらせて)、
五七五もいいけど、まとまったかたちで主張を見てもらいたいなーということで、
2年前のこれ、思い出しました。

しかし、ちょっとした時空のゆがみがありまして、
場所を嵐山から、11月祭にわく某大学構内のすみっこをお借りすることになりました。
おあつらえ向きにテントなんかありましたんで、展示物を広げてみました。

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薄墨を流したような曇天のもと、いちょうの木の黄色が浮き上がるように目に刺さります。

構内はちょうどお祭りで、家族連れやお友だち連れ、犬の散歩の人など、たくさんの人が歩みを止めて、私たちの展示を見てくれました。

画像のまんなかあたり、白い大きな模造紙数枚にびっしり書かれているのは
朝鮮学校史からみる朝鮮人差別」と題した、年表形式の展示です。
読んでいた人が「これ、1980年代がすっぽり抜けてるよ」と。
言われてみれば確かにそうです。しかし、書き忘れたわけではないはず……。
朝鮮学校はずっと弾圧されてきてるけど、80年代って実は比較的マシだったのでは?」
80年代にも朝鮮学校に関するできごとはさまざまあったでしょうが、それまでの運動が実を結び、勝ち取った成果が表れた時代でもありました。
しかし、90年代からこっち、特に00年代以降、朝鮮学校を取り巻く状況は、どんどん悪くなっています。
乱暴で極端な誰かのせい?
「国民」の理解が得られないと言うえらい人のせい?
民族教育は権利ですし、朝鮮学校の財政を、権利の保障として行政が支援するのも当たり前のことです。
なのに、その当たり前のことが実行されてない現状は、まちがっています。
まちがっていることを前にしたとき、一気にそれをただす力があればいいのですが、ものごとによっては、ひとりの力では及ばないこともあります。
でも、一気にただせないからといって、見て見ぬふりをしないでください。それは、まちがいを推し進めることに加担することです。

ひとりで、大きな力は出せないけれど、まちがいをまちがいだと訴えつづけることはできます。
これからもまたこの京都の地で、京都じゃないところでも、路上から、まちかどから、訴え続けますので、みなさんも見かけたら、見て見ぬふりはしないでくださいね。



はんにちわ!
まいどまいど、ろじょうから にっていの わるさを おつたえしている わたしたちですが、
あきだしね、たまには たちどまって(たちどまらせて)、
ご・しち・ご も いいけど、まとまったかたちで しゅちょうを みてもらいたいなー と いうことで、
2ねんまえの これ、 おもいだし ました。

しかし、ちょっとした じくうの ゆがみが ありまして、
ばしょを あらしやまから、11がつさいに わく ぼうだいがく こうないの すみっこを おかりする ことに なりました。
おあつらえむきに てんとなんか ありましたんで、てんじぶつを ひろげて みました。

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うすずみを ながしたような どんてんの もと、いちょうの きの きいろが うきあがる ように めに ささります。

こうないは ちょうど おまつりで、かぞくづれや おともだちづれ、いぬの さんぽの ひとなど、たくさんの ひとが あゆみを おめて、わたしたちの てんじを みてくれました。

がぞうの まんなか あたり、しろい おおきな もぞうし すうまいに びっしり かかれているのは
「ちょうせん がっこうし からみる ちょうせんじん さべつ」と だいした、ねんぴょう けいしきの てんじです。
よんでいた ひとが「これ、1980ねんだいが すっぽり ぬけてるよ」と。
いわれて みれば たしかに そうです。しかし、かきわすれた わけでは ないはず……。
「ちょうせん がっこうは ずっと だんあつされて きてるけど、80ねんだいって じつは ひかくてき まし だったの では?」
80ねんだいにも ちょうせん がっこうに かんする できごとは さまざま あったでしょうが、それまでの うんどうが みをむすび、かちとった せいかが あらわれた じだいでも ありました。
しかし、90ねんだいから こっち、とくに 00ねんだい いこう、ちょうせん がっこうを とりまく じょうきょうは、どんどん わるく なって います。
らんぼうで きょくたんな だれかの せい?
「こくみん」の りかいが えられないと いう えらい ひとの せい?
みんぞく きょういくは けんりですし、ちょうせん がっこうの ざいせいを、けんりの ほしょうと して ぎょうせいが しえん するのも あたりまえの ことです。
なのに、その あたりまえの ことが じっこう されてない げんじょうは、まちがって います。
まちがって いることを まえに したとき、いっきに それを ただす ちからが あれば いいのですが、ものごとに よっては、ひとりの ちからでは およばない ことも あります。
でも、いっきに ただせない からと いって、みてみぬふりを しないで ください。それは、まちがいを おしすすめる ことに かたんする ことです。

ひとりで、おおきな ちからは だせないけれど、まちがいを まちがいだと うったえつづける ことは できます。
これからも また この きょうとの ちで、きょうとじゃない ところでも、ろじょうから、まちかどから、うったえつづけます ので、みなさんも みかけたら、みてみぬふりは しないで くださいね。