あのね、あなたはね、のりこえられるほうなの・・・
あのね、あなたはね、のりこえられるほうなの・・・
はじめに~「のりこえねっと」なるものができたそうです
昨年2013年12月13日に「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク(のりこえねっと)」なるものの設立宣言がなされました。
設立宣言は「いま、在日韓国・朝鮮人を標的とするヘイトスピーチが、各地で凄まじい勢いで拡大している」ことに危機をおぼえる者たちが「民族や国境の壁を超えて、人権の普遍的価値を擁護し、防衛する行動」、「戦後体制によって市民的権利を剥奪されてきた人々の「市民として生きる権利」を希求する行動」としてヘイトスピーチの「暴力に対峙し、決然と対決する」決意を「人間の涙の歴史を無に帰そうとする挑戦に、私たちは、決して屈しない」という勇ましい言葉で締めくくられています。
(http://norikoenet.org/declaration.html)
1.「のりこえる」って誰が?
のりこえねっとのHPをみれば英語でWe shall overcome!と目立つようにあります。ああ、ここから「のりこえる」としたのかと思いました。このフレーズはアメリカでの公民権運動において象徴ともいわれるワシントン大行進でも歌われた同名タイトルの抵抗歌として有名なようです。私は公民権運動の造詣がそれほど深いわけではないのでこの歌についての言及は避けますが、「のりこえねっと」と聞いて最初に抱いた違和感について述べておきたいと思います。
「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える」というとき、その乗り越える主体はヘイトスピーチ、レイシズムが生きていくうえで障壁として自らの前に立ちはだかる側の存在、つまりその標的となる者たちではないのかということです。「差別に負けてたまるか」と歯を食いしばれるのは差別をされる側だけです。傍観者にならないという決意は素晴らしいと思いますが、このひとたちは何を傷つけられたことをもってそれに負けないと語っているのか正直なところよく分かりませんでした。次の一節を読むまでは…
本質に立ち返って考えたい。ヘイトスピーチが傷つけるものとは何なのか、ということを。それは、在日韓国・朝鮮人だけではない。社会的少数派だけでもない。ヘイトスピーチは、良心を持つあらゆる人々を傷つけるのだ。国籍も、民族も、性別も、出自も関係なく、すべての人間には普遍的な尊厳と人権があると考える人々の信念、そして、なによりも平和に生きようとする人々の精神に対して、言葉と物理的な暴力で憎悪を投げつけ、侮辱し、傷を負わせる。
(http://norikoenet.org/declaration.html)
自分たちの良心が、信念が傷つけられたということのようです。差別するつもりのない、仲良く生きてきた(つもりの)自分たちが差別者といっしょくたにされたように感じたのでしょうか…やっぱりよく分かりませんでした(笑)。厳しい言い方になってしまうこと承知の上ですが、「朝鮮人を皆殺しにしろ」と街頭で叫ばれているときに、己の信念と良心が傷つけられていると臆面なく言えてしまうのは随分勝手だなと感じます。さらに付け加えるならば、国籍や、民族、性別、出自が関係して尊厳や人権において平等がない社会、現実にはこれらによる差別がおきつづけている社会に生きているときに、その良心も信念もとっくに傷だらけのはずだと思うのですが、どうなのでしょうか(もちろんそれでも良心や信念というのは大事にすべきですが)。
2.どのように公民権運動なのかわからない・・・
そうはいっても、やはり活動内容を見てみないことには早合点し過ぎかもしれないですね。活動内容は<「日本の公民権運動」共生社会を目指して>と題して「ヘイトデモ対策」、「ヘイトスピーチ対策」、「エンパワーメント」、「広報告知」があげられています。このうちエンパワーメントについては全国学習会、ホームステイ、交流の場の設定や、マイノリティカウンセラー・リーダーの育成など、らしいです(http://norikoenet.org/outline.html)
ここで既に「公民権運動」の意味が何なのかわからなくなり戸惑ってしまいました。ここで書かれて活動のいったい何が、どんな公民権の獲得をどうやって目指してなされるのか…We shall overcome!にしろアメリカの公民権運動に倣っていることを印象付けさせたいのだと思いますが、ではアメリカの公民権運動の具体的にどんな部分に倣いたいのか?たとえば何かひとつでも国籍条項をなくすために闘うのでしょうか?近年減ってきているとはいえ今でも地方自治体の採用についても日本国籍を要件にするところもあります。国民年金ではかつて国籍条項のために加入できなかった高齢者、障害者に対して国籍条項撤廃以降も救済措置がとられなかったために無年金の状態に置かれているひとたちがいます。朝鮮学校への高校無償化除外、補助金不支給の問題はどうでしょう?公民権運動というからにはもっと何か示さなければ聞こえのよい言葉だけ借りてきたのではないかと思わざるを得ません。
3.むしろ「のりこえる」障壁を高くした共同代表
ここまでを通して一応は私が理解できたのは、のりこえねっとは各地で拡大するヘイトスピーチに対峙し、対決していくつもりであるという部分のみであり、レイシズムそのものを「乗り越える」だとか、「公民権運動」と称している活動内容にしてもレイシズムの一表現形態に過ぎないヘイトスピーチ、ヘイトデモへの対応に留まるものであり、いわば誇大広告だと思います。こういう現象は昨年に始まった「しばき隊」「プラカ隊」といった者たちの間でもみられた問題であると思います。ヘイトスピーチに特化して対峙することをもってレイシズムにも対峙しているかのようなポーズをとるのは構造的差別というより大きな問題の隠蔽、不可視化につながるものとして容認することはできないのでこういった看板は取り下げて欲しいと心から思います。
しかし、それでも今後の可能性まで否定することもないので、期待を込めることがまだできそうならば関係の築き方も模索したいところではありますが、ここで致命的だと思われる事実があります。
以下はのりこえねっとの共同代表21名です。
石井ポンペ、上野千鶴子、宇都宮健児、雁屋哲、北原みのり、河野善行、佐高信、辛淑玉、鈴木邦男、高里鈴代、田中宏、田中優子、知花昌一、中沢けい、西田一美、前田朗、松岡徹、村山富市、リリアン・テルミ・ハタノ、若森資朗、和田春樹
この面々の中には私が知っているだけでもレイシズムを乗り越えようとひとに言う前に、レイシズムに対抗するためにもまずもって己の行いについてなすべきことがあるだろうと言わざるを得ない者たちが見受けられます。
たとえば村山富市について言及すれば、日本軍性奴隷問題の解決に向けて活動する韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が村山の訪韓の際に指摘したように村山は「戦後処理に対する法的補償の原則を引っ込めて既存の自民党政権の政策を踏襲し、個人補償はできないという方針を明らかにし、道義的責任として『女性のためのアジア平和国民基金』を発足させるに至った」人物です。さらに日本による植民地支配と侵略戦争の非を認め謝罪した村山談話についても「厳密に言えば、国家が行った過去の反省、謝罪は、村山元総理によってはっきり行われたことはなく、村山談話の歴史認識は少なくともそれが国民基金という誤った道に進む礎石になった限り、私たちがこの時点で新しく確認すべき正しい歴史認識の枠組みでも決してない」とその問題を挺対協は指摘しています。
(http://www.labornetjp.org/worldnews/korea/knews/00_2014/1392224263328Staff)
設立宣言に戻ります。「在日韓国・朝鮮人を標的とするヘイトスピーチが、各地で凄まじい勢いで拡大している」の文意を損なわずに語順を変えてみれば<各地で凄まじい勢いで拡大している/ヘイトスピーチが、/在日韓国・朝鮮人を標的とする>となるでしょう。なぜ朝鮮人は標的となるのでしょうか?いま、ここで、問題にされているヘイトスピーチは日本のレイシズムのひとつの表現形態でしかありません。そしてその日本のレイシズムとは日本の帝国主義、植民地主義が継続していることに他なりません。ヘイトスピーチをどのように定義つけるかについて私は関心がありません。根っこがそのままであれば、そこから生えてきたものを何と名付け呼ぼうが朝鮮人を標的として襲うことは変わらず続くということは疑いようがないからです。
その意味において村山は朝鮮人を標的とする暴力を生み出すシステムを「のりこえる」ことをむしろ遅らせることに図らずも貢献してきてしまったはずであるとしかいいようがないのではないでしょうか。
4.侵略を美化するものにも我慢しろという強制社会ですか?
一応、その村山に対して相容れない共同代表がいることも事実です(それはそれでどう機能するのか不思議ではありますが)。鈴木邦男がその人です。ただし、方向が真逆です。自らが顧問をつとめる一水会は、これまで日本の総理大臣および外国からの要人に対して侵略戦争を肯定美化する靖国神社への参拝を求めたりするなど生粋の右翼団体ですが(http://www.issuikai.jp/katudou_file/katudou20090805_yasukuni.html や http://www.issuikai.jp/katudou_file/katudou20090427_russia.html
)、田母神俊雄が自衛隊空幕長を解任される原因となった「日本は侵略国家であったのか」と題される論文について「わが国の近現代史における対外戦争を「自虐史観」から取り戻すべく、歴史解釈の修正を提起する内容の論文」と位置づけた上で以下のような所感を述べています。
田母神前空幕長の問題提起の意図するところは、まさに自衛隊を建軍の本義に基づいた国軍に蘇生させるための主張であったと我々は認識する。もちろん「航空自衛隊のトップである人物が国の見解と異なる意見を述べるのは立場上不適切である」という文民統制の論理には頷けるものの、その根拠となった政府見解の村山談話こそ「自社さきがけ政権」の党利党略によって国益と国家百年の大計を否定し、当時下野していた自民党が政権奪回を果たすために社会党と売国の取引をした事実に他ならないのだ。
(http://www.issuikai.jp/katudou_file/katudou20081123.html)
素朴な疑問ですが田母神と在特会の違いって何ですか?「日本は侵略国家であったのか」と疑義を呈し侵略を美化する言説がヘイトスピーチでなかったら何がヘイトスピーチでしょうか?私はヘイトスピーチの定義に関心がないといいましたが、鈴木邦男はどうなのでしょうか?何に反対しているのでしょうか?やはり、言い方さえ丁寧にすればなんでもありなんでしょうか?別に田母神の例を持ち出さずとも、総理大臣や外国からの要人に靖国参拝を求める団体の顧問から「共生社会」を目指していると言われても、笑えるどころではなくて私は逃げ出したくなります。
おわりに~1年前、あれはどんな入口だったのか
正直なところ、いわゆる左翼的な言説と一水会の主張は表面的には一致することもが多いです。反米、反TPP、反秘密保護法、反原発、そして反ヘイトスピーチ…これこそ「真の愛国」!左派とか右派とか関係なくシングルイシューで手をつなごうということも起きるのかもしれませんね。そこで二の次、三の次にされてしまうことは何でしょうか?私は日帝の植民地支配責任、侵略戦争に対する戦後補償責任を求め闘うための歴史認識だと思います。
「レイシズム」、「ヘイトスピーチ」という言葉が流行語になっていくのとセットで植民地支配、侵略戦争を直截に問う言葉が聞こえなくさせられていないでしょうか?言いづらくなっていないでしょうか?
昨年2013年3月17日に排外デモに対して日の丸にバツ印をつけてカウンターに参加した者たちが「しばき隊」の者から罵倒されたということがありました。
(https://twitter.com/oscarexpress/status/313451434941247488)
あのときも、この問題についてはtwitterといったネット上で様々な意見が交わされました。その中には、運動の入口論として日の丸にバツ印をつけて掲げるのには慎重であったほうがいいという意見もありました。この運動の入口論というのは要は、<日の丸は日本社会で一般に受け容れられている以上、バツをつけるのは過激に見えるからこれから運動に参加しようとするひとが参加しにくくなる。日の丸の抑圧性、その歴史についての認識を深めるのは後でやればいい>ということです。
いま一年たって、私は<あの入口>から始まってそのさきの出口として「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」の共同代表である鈴木邦男の名を眺めている気持ちです。そしてそれはまたひとつの絶望への入口でもあるようです。
私たちは事実としてはずっと共に生きています。そしてそれはマイノリティの側に絶えざる(耐えざる)我慢(美しく「寛容」と言い換えましょうか?)を強いながらです。(それなのにいったいどうしてエンパワーメントとしてホームステイという発想が出てくるのでしょうか?)
しかし、ときにそうやって生き抜くことに限界もあります。
だから、生き抜かんと「負けてたまるか」、「のりこえてやる」とその口からしぼり出したり、胸に秘めたりもするんです。
あのね、あなたはね、のりこえられるほうなの。
p.s.一水会については会員が会の公式ブログにて「原発技術なんか朝鮮人にくれてやれ。穢れた技術は、穢れた民族にこそ相応しいのだから 」という民族差別発言をなしたことについて会の公式見解ではないという逃げ方をするのではなく、当該会員に対してどのような対応をしたのか説明をするべきことを付言しておきます。鈴木邦男がtwitterで謝罪すればすむという話ではありません。
(http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201207311211052)
コトコトじっくり煮込んだ日帝♪(レのはちぶおんぷ)