「~に救(すく)われる朝鮮人(ちょうせんじん)もいる」言説(げんせつ)について
朝鮮が日帝によって植民地統治された時代において、日帝に協力することによって自らの保身を第一に考えた朝鮮人が残念ながらいた。親日派と呼ばれるものたちである。抵抗がときに死と引き換えとなる困難な状況において独立のために抵抗運動に身を投じて殺されていった有名無名の無数の同胞を裏切り、己の尊厳を殺してその身を生きさせることを選んだ親日派の生に誰が責任を取るべきか考えるとき、それはまずもってはその困難な状況の中で常に究極の「選択」を突きつけた日帝であり、そして、同胞を裏切ることを選び取った親日派自身である。だからこそ大韓民国には親日派が日帝に協力して得た財産を没収する法があるなど、被植民者としての立場からの歴史清算は未だに現代の課題として残っているのである。
翻って日本はどうであろうか。侵略の最大の責任者である天皇ヒロヒトを処罰しなかったどころか天皇制を維持し続けていること、その天皇による支配を称揚する君が代と侵略の象徴の旗である日の丸をそれぞれ1999年に国歌、国旗と制定し忠誠を誓わせていること、植民地支配という暴力およびその中でなされた数々の犯罪行為についての補償を拒絶し続け、その加害の歴史そのものすら積極的に否定し続けていること、それらの犯罪行為について暴露し告発する在日朝鮮人の運動を弾圧し続けること、これらのことを鑑みるとき日本はいまだに大日本帝国のままであり続けていると言わざるを得ない。
そしてこの状況のために当然ながら現代においても親日派は生み出され続けている。現代の親日派とは具体的にはどのような者たちであろうか。それは日本の植民地主義を克服させようと抗い続ける同胞に背を向けて、それを潰そうとする植民者根性の抜けない旧宗主国マジョリティに加担することで自らの安寧を確保、拡大させようとする者たちである。そして、これら親日派は一見すると朝鮮人差別への反対を訴えているようなポーズを取ることが往々にしてあっても、その実態は「よりマシな主人」を求める以上のものではなく、そしてあわよくば自らもまた「名誉日本人」として抵抗する朝鮮人を支配する側につきたがるものである。
在特会に代表されるような行動する保守らによる「過激」な排外パフォーマンスから守られさえすればよいと言わんばかりに、その実のところ日本のレイシズムを維持し続けるということがもうとっくの前に証明されている「日本人の日本人による日本人のためのゲーム」である「しばき隊/プラカ隊」といったカウンター行動(「レイシストを本当にしばけるの???」http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/08/01/181751)に飛びついて、既にそこでなされてしまった様々な差別行為(「差別に差別で対抗してもいいの?」http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/08/01/180858)に対して受け入れてしまった者たちも現代の親日派である。この者たちはカウンター行動の中心人物らがナショナリズムを煽り、日の丸を認めさせ、歴史修正主義者とすら手を結び、そしてそれらひとつひとつに抗う朝鮮人に対しては「ミンジョクの恥」とすら言い放つことに対して見て見ぬ振りを決め込むか、ましてや必死に擁護に回ってまで媚態を振りまく。そしてその際、自らが行動する保守らによる差別行為の「被害者」であるということをもってして、カウンター側が発する差別行為にある種の「免罪符」を与え、自らの加害に「正当性」を与えている。
さて、親日派という生き方は当然に否定されるべきものであると私たちは考えるが、一方でこのような親日派の振る舞いについて次のような声も聞こえる。
「日本人がいまだに掲げてしまっている日の丸に朝鮮人が反対を示せないことを非難するのはおかしい」
「カウンターに救われる朝鮮人も当然いる」
なるほど、旧宗主国民としてまずは自分たちこそが未だ継続する日本帝国主義、植民地主義を解体させるべきという考えは当然持つべきものであるだろう。また排外デモは確かに怖い、それをやめさせるための行動について救われた朝鮮人がいるのは不思議なことではなかったかもしれないし、冒頭で書いたように親日派という生き方もまた日帝の圧倒的な暴力のもとで突きつけられる服従か死かという究極の「選択」において、ひとつの被植民者の在り方という見方もあり得るのであろう。このように心を寄せる態度は一見すると優しくて、思いやりに満ちているかのようである。
しかし、よく考えて頂きたい。
もう一度言及すると、在特会等の行動する保守らに反対を唱えたり、行動を抑制・阻止することで、それらから差別され暴力にさらされている朝鮮人が救われた気持ちになることはもちろん否定しないし、大いにありうると思う。しかし、その場でカウンター支持者らが、カウンター側による差別行為を無視、黙認し、「カウンターに救われる朝鮮人」を用いてカウンターに対する批判を無効化しようとするならば、これらは「救われる朝鮮人」を利用しながら、差別を補強し、自らが差別に手を貸すだけでなく、「救われる朝鮮人」やたとえば新大久保に住む人々に差別に手を貸すことを要求し、差別が今以上にひどくなる社会を作ることを他ならぬ被差別者に要求することにならないか。行動する保守らに反対するとき、差別行為を働かずにカウンターすることはできる。にもかかわず、朝鮮人が、行動する保守「のみ」に反対しその場ではなりふりかまわず差別行為を繰り返すものや歴史修正主義者とも手を組み、その者達の行う(時には自らも行う)差別・排除にある種の「免罪符」を与える。そのような生き方が、たとえば「マイノリティの多様な生き方」として語られていいのだろうか。
そしてまた、「日本は戦後責任を果たし、過去を清算しないといけない」と主張しつつも、それが果たされていない現実を前に親日派という生き方をも肯定せざるを得ないものとして語る者もいるが、いや、本当にそう思うのであればこそ、親日派という生き方を多様性のひとつとして、ひとつの戦略として擁護(抵抗主体としての朝鮮が殺されることへの放置)することは実は卑怯な態度ではなかろうか。それは結局のところ奴隷主が奴隷に対して「お前たち奴隷が奴隷根性から抜け出さずに、よりマシな主人を求めるのは当然のことである」と言っているようなものではないだろうか。今まさに<抵抗する在り方としての朝鮮>を殺し自らを屍と化し続けているような朝鮮人を前にして、その奴隷であり続けようとする心性にいくら心を寄せようと、私たちにはそれが旧宗主国民の困難さを最も安易な形で解消させようといているのではないかとしか思えないのである。
旧宗主国民として、大日本帝国という未だ継続する植民地主義を終わらすに至れていないことの責任感なのか、または負い目からなのか、それをまるで親日派朝鮮人に対して「寛容」であることで応えているつもりかもしれないが、実はその態度そのものが親日派という存在に依存することによって、この社会にとって本来存在してはならないはずの「許容可能なレイシズム」という線を引いているということ、またそれこそ植民地期から続く日帝による究極の「選択」を積極的ではないにしても肯定することにはならないだろうか。私たちは親日派を甘やかすなと言っているのではなく、植民地主義を本当に終わらせるつもりがあるならば親日派に甘えてはいけないのではないか、むしろ親日派という生き方を積極的に否定することが必要なのではないだろうか。もちろんその行為には相当な覚悟が必要であるだろう。しかし、そのことこそが日帝が現在も生き続けていることの証左であるだろうし、主人こそが克服しない限りこれからも日帝は生き続けるだろう。
気前の良い主人と奴隷が「仲良く」する世界は今すぐ潰されるべきである。
コトコトじっくり煮込んだ日帝♪♪(レとファの八分音符)