ヘイトスピーチきせいろんと れきししゅうせいしゅぎの りょうりつじょうきょうに ついて

 

 はじめに

 8がつ5にち、6にちにかけて あさひしんぶんが 「いあんふほうどうとくしゅう」を けいさいし、そこで こ よしだせいじしの しょうげんが きょぎであったとし、きじを とりけしたことを うけ、あたかも にほんぐんせいどれいせい そのものが なかったかのような しゅうせいしゅぎが このかん、とくに もういを ふるっている。しゅうせいしゅぎ そのものは にほんには じゅうらいより ねづよく あったものであるものの、その いきおいの はげしさには そっちょくに ききかんを つよくせざるを えない。そして もうひとつ きになることは、いっぽうでは この しゅうせいしゅぎが ふきあれる さなかに おいて、たほうでは ヘイトスピーチきせいろんが さかんに なっている ことである。いや、しゅうせいしゅぎしゃと ヘイトきせいすいしんはが はげしく ひばなを ちらしているというのなら なっとくもいくが、どうも そうでないから きになる。なぜ、じみんとうが ヘイトたいさくPTなど おいているのか?なぜ はしもととおるが さくらいまことと めんだんしたり しているのか?こういう じょうきょうは ほんらい いみふめいであるべきだ。「なかよくしようぜ」くらいに、じぶんを しばかない のまさんくらいに いみふめいであるべきだ。「れきししゅうせいしゅぎしゃだけど ヘイトには はんたい」なんて とんちんかんな じょうきょうについて かんがえたい。

 

1.あさひしんぶんの「いあんふほうどうとくしゅう」と その はんのう

1-1.「いあんふほうどうとくしゅう」がいよう

 そもそも あさひしんぶんは なぜ こんな きょくうせいけんにおいて けんしょうきじなんか だしたのか りかいに くるしむが、8がつ5にち<いあんふもんだい慰安の ほんしつ ちょくしを>において、

「いあんふもんだいが せいじもんだいかする なかで、あべせいけんは こうのだんわの さくせいかていを けんしょうし、ほうこくしょを 6がつに はっぴょうしました。いちぶの ろんだんや ネットじょうには、「いあんふもんだいは あさひしんぶんの ねつぞうだ」という いわれなき ひはんが おきています。しかも、もと あさひしんぶんきしゃが なざしで ちゅうしょうされる じたいに なっています。どくしゃの みなさまからは 「ほんとうか」「なぜ はんろん しない」と といあわせが よせられるように なりました。わたしたちは いあんふもんだいの ほうどうを ふりかえり、 きょうと あすの しめんで とくしゅうします。どくしゃへの せつめいせきにんを はたすことが、みらいに むけた あらたな ぎろんを はじめる いっぽとなると かんがえるからです。」

 「せんじちゅう、にほんぐんへいしらの せいの あいてを しいられた じょせいが いた じじつを けすことはできません、いあんふとして じゆうを うばわれ、じょせいとしての そんげんを ふみにじられたことが もんだいの ほんしつなのです。」

と とくしゅうを くむ いとを あらわしたうえで、8がつ5にちの けんしょうにおいて、よしだしょうげん(ちぇじゅどでの きょうせいれんこう)については 「うらづけえられず きょぎと はんだん」し とうじの きじを とりけした。これを けいきに にほんぐんせいどれいせい そのものを ひていせんとする れきししゅうせいしゅぎの いきおいが どれほど ましているかについて あらためて しるす ひつようも あまり かんじないが、いちおう、8がつ5にちから 2かげつぶん、かちゅうの あさひしんぶんを ちゅうしんに ざっくり ながめてみた。

 

1-2.とくしゅうに たいする はんのう

 せいじかたちの はんのうは いかのよう。はつげんとうじから このかんまでに おもな かたがきが かわっている ものについては(とうじ→げんざい)としている。

いしばしげる(じみんとうかんじちょう→ないかくふとくめいたんとうだいじん)

 “とりけすとなれば、いままでの ほうどうは いったい なんであったのか。なぜ じゅうぶんな うらづけが とれない きじを こんにちに いたるまで ただしい ものとして やってきたのか、そのことの けんしょうは にほんの こくえきの ためにも(かんこくを ふくむ)この ちいきを ゆうこうの ちいきとして かくりつしていくためにも きわめて じゅうような ことだ”“この けんしょうを ぎかいのばで おこなうことも ひつようかもしれない。しんじつは なんであったのか あきらかに しなければ、これからさきの へいわも ゆうこうも きずけない”(あさひ 8がつ6にち ちょうかん)

 “まちがいでしたで すますのではなく、どうして こういう きじになり、けんしょうを どのように してきたか、この もんだいは なんだったのか をきちんと こっかいで ぎろんする”“にっかんかんけいの かいぜんのために ぎかいのばで ぎろんするのは あたりまえで、(ほうどうの)だんあつとか そういう はなしで とらえてはいけない”(あさひ 8がつ7にち ちょうかん)

 

たかいちさなえ(じみんとうせいちゅかいちょう→そうむだいじん)

 “あさひしんぶんの けんしょうきじは アメリカで ほとんど、もしくは まったく ほうどう されていないと そくぶんしている。せいふは、せいふが けんしょうした けっかについては すくなくとも たげんごで はっしんして いただきたい”“いあんふもんだいは、にほんや こくみんの めいよを しょうらいに わたって きずつける じょうほうが かいがいに はっしん されているので、しっかりと うちけしていくあたらしく ちょうさによって はんめいした じじつに もとづいた だんわを はっしゅつしてほしい”(あさひ 8がつ22にち ちょうかん)

 

すがよしひで(ないかくかんぼうちょうかん)

 “その ほうこくしょ(クマラスワミほうこく)の いちぶが、せんぱん、あさひしんぶんが とりけした きじの ないように えいきょうを うけていることは まちがいないと おもう。わがこく としては きょうせいれんこうを しょうめいする きゃっかんてきしりょうは かくにん されていないと おもう”“わがこくの この もんだいに たいする きほんてきたちばや とりくみを ふまえていないことに ついては いかんに おもっている。こくれんを ふくむ こくさいしゃかいに、わがこくの たちばを これからも しっかり せつめいしていきたい”(あさひ 9がつ5にち ゆうかん)

 “ほうどうの えいきょうりょくの おおきさを かんがえれば、ごほうなど ないように さいしんの ちゅういを はらう ひつようがある。ごほうが あった ばあいは、こじんや きぎょう、こっかの めいよや しんらいに ただいな えいきょうを およぼす じゅうだいせいに かんがみ、すみやかに きちんと ていせいし、せきにんをもって きそんされた めいよの かいふくに さいぜんを つくすべきだ”(あさひ 9がつ13にち ちょうかん)

 

かとうかつのぶ(かんぼうふくちょうかん)

 “ごかいに もとづく えいきょうの かいしょうに どりょくしてほしい”(よみうり 9がつ18にち ちょうかん)

 

せこうひろしげ(かんぼうふくちょうかん)

 “かいがいの ごかいの げんいんになった”“20せいきぜんはんに おこったことを 21せいきの かちかんで ぎろんしないと いけない ひじょうに むずかしいテーマ”“にほんは いま、じょせいが かつやくする しゃかいに なっていることを みせていくことが せいふとして いちばんにやるべきこと”(よみうり 10がつ3にち ちょうかん)

 

きしだふみお(がいむだいじん)

 “いちぶほうどうきかんの ほうどうが これまで くにの ないがいにおいて おおきな はんきょうを よんできたことは ひていできない。ほうどうきかんとして じかくと せきにんの もとに つねに けんしょうを おこなうことは たいせつだ”(あさひ 9がつ13にち ちょうかん)

 

いなだともみ(じみんとうせいちょうかいちょう)

 “32ねんかん、ごほうを ほうちしてきたことは ふさくいによる きょぎと いっても かごんではない。まずは じぶん(あさひしんぶん)じしんで けんしょうすることが だいじ”(あさひ 9がつ15にち ちょうかん)

 

たにがきさだいち(じみんとうかんじちょう)

 “こくえきに いろいろ えいきょうを あたえた。あやまった しんぶんほうどうなどは しんしな はんせいを していただく ひつようがある”“せいふとしては こくないがいに たいし、しかるべき はっしんを これからも きょうかしていく(あさひ 9がつ16にち ゆうかん)

 

あべしんぞう(そうりだいじん)

 “たとえば いあんふもんだいの ごほうによって おおくの ひとが くるしみ、こくさいしゃかいで にほんの めいよが きずつけられたことは じじつと いってもいい”(あさひ 9がつ12にち)

 “にほんへいが、ひとさらいのように ひとの いえに はいっていって こどもを さらって いあんふにしたという、そういう、きじだった。せかいじゅうで それを じじつだと おもって、ひなんする いろんな ひが できているのも じじつだ”“せかいに むかって しっかりと とりけしていくことが もとめられている”“いちど できてしまった こていかんねんを かえていくのは、がいこうが からむうえでは ひじょうに むずかしい”(あさひ 9がつ15にち ちょうかん)

 “おおくの ひとびとが きずつき かなしみ、くるしみ、いかりを おぼえ、にほんの イメージは おおきく きずついた『にほんが くにぐるみで せいどれいにした』との、いわれなき ちゅうしょうが いま せかいで おこなわれている。ごほうによって つくりだされた”“(よしだしょうげんについて)デタラメということは、かなり はやい だんかいから わかっていた”“きょうかしょに じじつであるかのごとく『きょうせいれんこう』と かかれるのは おかしいという うんどうを てんかいしてきた”(あさひ 10がつ3にち ゆうかん)

 

はしもととおる(おおさかしちょう おおさかいしんのかい だいひょう、にほんいしんんのかい(→いしんのとう)きょうどうだいひょう)

 “32ねんかん あやまちを みとめてこなかった あさひしんぶんの しせいによって、よしだせいじしの ちょしょが こくれんきやくじんけんいいんかいの ほうこくしょの しりょうになり、にほんが せいどれいを つかったと せかいから ひはんを うけた”“あさひしんぶんの つみは おおきすぎる”(あさひ 8がつ7にち ちょうかん)

 

やまだひろし(じせだいのとうかんじちょう)

 “あさひしんぶんの いあんふほうどうによって こうむった わがこくの おおきな こくえきの そんしつをかんがみれば きむら(ただかず)しゃちょうの こっかいへの さんこうにんしょうちの ひつようせいは さらに たかまった”(あさひ 9がつ13にち ちょうかん)

 

ひらぬまたけお(じせだいのとうとうしゅ)

 “そうとう、こくえきに おおきな あくえいきょうを あたえた。じゅうぐんいあんふと そのほかも、しっかりと(しょうちの)たいしょうに していくことが たいせつだ”(あさひ 9がつ15にち ちょうかん)

 

やまぐちなつお(こうめいとうだいひょう)

 “れきしてきな じじつを きゃっかんてきに にんしきすることが じゅうようだ。きょうぎの きょうせいせいが あったかどうかだけで みるべきではない。はばのひろい みかた、こくさいしゃかいの うけとめの じょうきょうなどを みていく ひつようがある”“こくみんや こくさいしゃかいが、より だとうな りかいを できるよう せいじてきな リードが じゅうようで、れいせいな たいおうが ひつようだ。こっかいで どうするか、いま はんだん すべきではない”(あさひ 8がつ7にち ちょうかん)

 “あさひしんぶんが みずからの ほうどうを とりけし、ていせいし、そして せきにんしゃが おわびを するのは きわめて まれなことであり、その えいきょうの おおきさも じゅうぶんに にんしきを しなければならない”(あさひ 9がつ13にち ちょうかん)

 

かいえだばんり(みんしゅとうだいひょう)

 “かこを かえることは できない。みらいに むかって アジアの くにぐにと どういう かんけいを きずいていくかに じゅうてんを おきたい”(あさひ 8がつ7にち ちょうかん)

 

まつばらじん(みんしゅとうこっかいたいさくいいんちょう)

 “あさひしんぶんによって つくられ、こくないがいに ひろまった あやまった(いあんふの)イメージを ふっしょくすることが あさひの せきむだ。あさひは あやまった ほうどうと おなじ ぶんりょうだけ、しゅうせいほうどうを すべきだ”(よみうり 9がつ13にち ちょうかん)

 

ますぞえよういち(とうきょうとちじ)

 “まったくのきょぎほうどうであるということを はんせいしたのは とうぜんだ。にっかんかんけいを ここまで ゆがめた ひとつの りゆうだ”(よみうり 8がつ8にち ちょうかん)

 

さたけのりひさ(あきたけんちじ)

 “あるていど こくえきを がいしたことになる。もとに もどるのは ひじょうに たいへん。あさひさんには はんせいしてもらいたい”(あさひ 10がつ3にち ちょうかん)

 

 たちばが はっきり しないものも わずかに まじっている ものの、その ほとんどが こくえきを そこねただの、にほん(じん)の めいよを きずつけただの、ナショナリズムを あおる くだらないものであるばかりか、かがい-ひがいの かんけいが まるで てんとうしている。 それこそ あさひしんぶんの ことばを かりるならば「いあんふとして じゆうを うばわれ、じょせいとしての そんげんを ふみにじられたことが もんだいの ほんしつ」であるときに、このように はずかしげもなく ひがいしゃづら しているさまは 「らちもんだい」を けいきとした もうれつな ちょうせんバッシングを おもいおこさせる。また この じょうきょうは ちほうぎかいにも はきゅうしている。

 

・あさひいあんふきじ「いけんしょ」を かけつ おおさかしぎかい(よみうり 9がつ10にち ちょうかん)

・じゅうぐんいあんふもんだい けんしょうもとめ いけんしょ きたきゅうしゅうしぎかい(あさひ 9がつ30にち ゆうかん)

・いあんふもんだいで けいはつなど ようせい けんぎかいが ちんじょうさいたく かごしま(あさひ 10がつ4にち ちょうかん)

・こうのだんわみなおし せいがんさいたくへ けんかいじみん そうむいいんかいで=やまがた(よみうり 10がつ4にち ちょうかん)

・しぎかい、6ねんまえの いあんふいけんしょ 「こんきょ うしなった」=たからづかし(よみうりオンライン 10がつ8にち)

 とくに たからづかしのように ぜんこくでも さきがけて 2008ねんに もと「いあんふ」に 「せいじつな たいおう」を するよう せいふに もとめる いけんしょを かけつした じちたいまでもが こんかいを けいきに ちょうしづいた はんどうを おさえられなかったことは しんこくに うけとめたい。

 また こんかいの あさひバッシングに たいして、はんしゅうせいしゅぎの たちばから どれほど せいめいのようなものとして でているかについては(おそらく ぜんこくメディアで とりあげられることも むずかしいだろうが)、WAM(おんなたちの せんそうと へいわしりょうかん)からの せいめい(8がつ12にち)、にほんきょうさんとうが きかんしあかはたに のせていた ろんぶん「れきしを ぎぞうするのは だれか」(9がつ27にち)、そして さいきんでは みどりのとう (10がつ12にち)と れきしがくけんきゅうかいからの せいめい(10がつ15にち)などが いちおう かくにんできた ていどである。

 

2.にほんにおける れきししゅうせいしゅぎの たいとうについて

 にほんにおいて こんにちに ちょくせつに つらなるような れきししゅうせいしゅぎの たいとうは じゆうしゅぎしかんけんきゅうかいや 「あたらしい れきしきょうかしょを つくるかい」が でてきた 1990ねんだいの とくに なかばからであろうという ぜんていで その がいようを かくにんしてみたい。

 

2-1.ぜんし

 VAWW-NET JAPANによると、にほんの れきしきょうかしょにおいて「50ねんだいなかばから 80ねんだいなかばまで、せんぜんの じじつ、とくに にほんの しんりゃくせんそうや かがいの じじつが ただしく きじゅつされてこなかった」という。せいふ、もんぶかがくしょう(もんぶしょう)による きょうかしょけんていによって、これらの きじゅつが さくじょや しゅうせいを きょうせいされてきたためである。しかし、80ねんだいなかばからは かいぜんされるようになる。これは いえながきょうかしょさいばんの たたかいと、80ねんだいしょとうから はじまった にほんの れきしわいきょくに たいする 「こくさいひはん」によって そのような きょうかしょけんていが できなくなったことが あげられる。こくさいひはんについて ぐたいてきにあげると、1982ねんに もんぶしょうが けんていにおいて 3.1どくりつうんどうを 「デモと ぼうどう」、しゅっぺいを 「はけん」、しんりゃくを 「しんしゅつ」と かきなおさせたという ほうどうが あったことで ちゅうごく・かんこくからを ちゅうしんに こうぎがおき がいこうもんだいへと はってんしたことを うけて みやざわだんわが だされ きょうかしょけんていにおける 「きんりんしょこくじょうこう」が きていされた。

 また 1986ねんには「にほんを まもる こくみんかいぎ」(1978ねん7がつ けっせい、げんざいの にほんかいぎ)が さくせいした「しんぺん にほんし」についても もんぶしょうからの しゅうせいが しじされた。

 

2-2.「しょうげんの じだい」と「ひていの じだい」

 1991ねんに きむはくすんさんが もと「いあんふ」として なのりでて にほんぐんせいどれいせいが こくはつされ、まさに 「しょうげんの じだい」を むかえたとき、それに こおうするように うったえを ひてい・むこうかする 「ひていの いだい」も 90ねんだいなかばより たちあがってきた。こんにちの れきししゅうせいしゅぎに ちょくせつに つらなるものとして 95ねんに じゆうしゅぎしかんけんきゅうかい、96ねんに あたしい れきしきょうかしょを つくるかいが けっせいされ、さらに ぜんじゅつの 「こくみんかいぎ」が「にほんを まもるかい」と とうごうして げんかくりょうの たいはんを しめる にほんかいぎを そしきしたのが 97ねん、これらが にほんぐん「いあんふ」さくじょの うんどうを てんかいしていったことは おさえておきたい。

 

95ねん.ふじおかのぶかつらによって じゆうしゅぎしかんけんきゅうかいの けっせい(「じぎゃくしかん」などは このころから)。

96ねん.ちゅうがっこうで あつかう れきしきょうかしょの 7しゅの すべてに「従じゅうぐんいあんふ」の きじゅつが のるように なったことを うけて 12がつに にしおかんじらと 「あたらしい れきしきょうかしょを つくるか」を けっせい。

97ねん.にほんを まもる こくみんかいぎと にほんを まもる かいが とうごうし にほんかいぎが けっせい。

98ねん.「つくるかい」に りじたいぐうで さんかしていた こばやしよしのり「せんそうろん」が ベストセラーに。

99ねん.にしおかんじが 「こくみんの れきし」を しゅっぱん。

01ねん.「あたらしい れきしきょうかしょ」しょはんが だされる。

 

 このような れきししゅうせいしゅぎの うんどうが あたえた えいきょうを ちゅうがっこうの きょうかしょを さんこうに みてみたい。

 「つくるかい」けいの きょうかしょの さいたくりつは 01ねんの さいたくりつ:0.039%→05ねん:0.38%→09ねん:1%をこえる→11ねん:4%ぜんごと なっており、じっすうとしては ちいさいとしても のびりつとしては この10ねんかんで 100ばいに のぼっており、じっさいの えいきょうは じっすうよりも おおきいと かんがえるべきであろう。それは ひはんを かいひするために 「つくるかい」きょうかしょを さいようしない きょういくいいんかいであっても、どうじに 「じぎゃくしかん」として 「つくるかい」の こうげきたいしょうとなった きょうかしょも さいたくしないという はんだんを とったことにも あらわれており、けっかとして ちゅうがっこうの きょうかしょぜんたいの レベルを たしかに みぎがわに シフトさせてきたと いってよい。じじつ、にほんしょせきの れきしきょうかしょは 「つくるかい」などから はげしく こうげきされ、01ねんの さいたくりつは それまでと ひして はんげん、04ねんまでに はいかんに おいこまれた。 

 これは とうぜん、ほかの ちゅうがっこうきょうかしょにおける きじゅつにも えいきょうを あたえ、97ねんに 7しゅ すべての きょうかしょに のっていた「いあんふ」についてのきじゅつは、00ねんには けんていしんせいぼん 8しゅのうち 3しゅに げんしょう、05ねんには しんせいだんかいで 1しゃとなり、12ねんには すべての きょうかしょから 「いあんふ」という ことばが かんぜんに きえた。

 

2-4.けんりょく→けんい→ポピュラリティ ざいとくかいを うみだす どじょうづくり

 「いあんふ」ひがいしゃたちの こくはつによる にほんぐんせいどれいせいが こくさいもんだいと なるなかで、こうのだんわ(93ねん)、むらやまだんわ(95ねん)という かたちで「おわび」が なされたことと それに はんぱつする かたちで じゆうしゅぎしかんけんきゅうかい、「つくるかい」が とうじょうし、さらに ぜんじゅつしたとおり にほんかいぎが かせいするかたちで うんどうを てんかいしていったことは、みやざわだんわいこうに 「こくみんかいぎ」が はんどうてきな きょうかしょを しかけたのと おなじ こうずと かさなるが、こうのだんわ、むやらまだんわが にほんせいふの ほうてきせきにんを かいひさせ 「こくみんききん」という かたちで けっちゃくを はかろうと したことで おんぞんしてしまった、あるいみでは より かっこたるものとして かくにんされた、<せんぜんからの れんぞくせい>こそが たえざる はんどうの そうくつくうかんを のこし、しゅうせいしゅぎを ここまで ひだいかさせていった めんが あるのではないかと わたしは かんがえている。

 それは まずは「こくみんかいぎ」のような やすくにしかんの せいじかたちの うんどう(けんりょく)に はじまって、マスメディアや じゆうしゅぎしかんけんきゅうかい、「つくるかい」という <アカデミアっぽい>せいりょく(けんい)をへて、けんかん・ちゅう・ちょうの マンガや インターネットといった ポピュラリティへと、いわば げんろんの「じょうりゅう」から「かりゅう」へと たれながされ (もちろんその ないように おいても げれつで ちょくさいてきな べっし、ぞうおを あおるものになって ひろがっていく)むきだしの ぼうりょくを ともなう はいがいデモの どじょうが かんせいされたと いえるだろう。やまのしゃりんによる マンガけんかんりゅうが ベストセラーとなり「けんかんブーム」が おきたのは 2005ねんだが、これを おうように よくとしの 2006ねん12がつに ざいとくかいが けっせいされた。

 ざいとくかいてきなものを たちきることは しゅうせいしゅぎを たちきることと ふかぶんのはずである。

 

3.ヘイトスピーチきせいろんにおける れきししゅうせいしゅの いち

3-1.おうしゅうでの はんヘイトほうにおける れきししゅうせいしゅぎの いちづけ

 まえだあきらしによると おうしゅうでは れきしひていはつげんを しょばつする ほうりつを 「アウシュビッツのうそ」しょばつ、あるいは「ホロコーストひていの つみ」と よぶとし、おうしゅうにおける れきしひていはんざいに かんする じょうきょうを せいりしている。それによると、

-ドイツにおいては、けいほうだい130じょう だい3こうで「こうきょうの へいおんを みだすのに てきした たいようで、こうぜんと、または しゅうかいで、だい220じょうa だい1こうに かかげる たいようでの ナチスの しはいかで おこなわれた こういを ぜにんし、その そんざいを ひていし または わいしょうかする ものは、5ねんいかの じゆうけい(けいじしせつしゅうよう)または ばっきんけいに しょされる。」

*だい220じょうa だい1こうとは 「みんぞくぼうさつ」を いみする

 

-フランスにおいては、2004ねん3がつ9にちの ほうりつによって、1881ねん7がつ29にちの ほうりつに だい6513じょうが そうにゅう。「じんどうに たいする つみに うたがいを はさむ」という タイトルであり、さべつ、ぞうお または じんしゅしゅぎ、または しゅうきょうてきぼうりょくの きょうさ、じんどうに たいする つみに うたがいを はさむこと、じんしゅしゅぎてきせいしつ人の ちゅうしょう および じんしゅしゅぎてきせいしつの ぶじょくは、ほかの プレスはんざいに もうけられている じこう さんかげつに かえて、いちねんの じこうとする というもの。

 

-スイスにおいては、れんぽうさいこうさいは、ナチス・ドイツが にんげんせんめつに ガスしつを しようしたことに うたがいを はさむことは、ホロコーストの じゅうだいな かしょうひょうかであると はんだん。れきししゅうせいしゅぎに じゅうごかげつの けいじしせつしゅうよう刑と 8000フランの ばっきんが かくてい。

また、アルメニア・ジェノサイドを ひていした じあんで、さいこうさいは とうがいはんざいは こうきょうちつじょはんざいであるとした。

ほかの ヘイトスピーチきていとの かんれんは ふめい

 

リヒテンシュタインにおいては、けいほうだい283じょうは ヘイトスピーチを はんざいとし、にねんいかの けいじしせつしゅうようと している。そのなかで ジェノサイド または そのたの はんざいの ひてい、ひどい わいしょうか または せいとうか、ならびに その もくてきで しょうちょう、しぐさ また ぼうりょくこういを でんじてきしゅだんで こうぜんでんたつを、はんざいとしている

 

-スペインにおいては、アウシュビッツの うそ」きていが、ドイツや フランスと どうように けいほうてんに きていされており、ごうけんせいについての はんだんとして 2007ねん11がつ7にち、けんぽうさいばんしょは 「ひてい」を はんざいとして しょばつすることは いけんであるとし、「せいとうか」については はなざいじっこうを かんせつてきに せんどうし、ひふの いろ、じんしゅ、こくみんてきみんぞくてきしゅっしんによって ていぎされる しゅうだんの ぞうおを ゆうはつする かねんの こうぜんたる るふであり、ジェノサイドの 「せいとうか」は まさに はんざいであるとした

 

ポルトガルにおいては、けいほうだい240じょうが じんしゅさべつ人の きんしを さだめており、だい2こうに「アウシュビッツの うそ」きていが ふくまれる。

けいほうだい240じょう「じんけん、しゅうきょう または せいてきさべつ」だい2こう

こうかいしゅうかい、ぶんしょはいふにより、そのたの けいたいの メディア・コミュニケーションにより、または こうかいされるべく せっていされた コンピュータ・システムによって、

a)じんしゅ、ひふの いろ、みんぞくてき または こくみんてきしゅっしん、しゅうきょう、せいべつ または せいてきしこうに もとづいて、ひと または しゅうだんに たいして、ぼうりょくこういを そくしんした もの、

b)じんしゅ、みんぞくてき または こくみんてきしゅっしん、しゅうきょう、せいべつ または せいてきしこうに もとづいて、とくに せんそうはんざい または へいわに たいする つみ および じんどうに たいする つみの ひていを つうじて、ひと または しゅうだんを ちゅうしょう または ぶべつした もの、ないしは

c)じんしゅてき、しゅうきょう または せいてきさべつを せんどう または こぶする いとを もって、じんしゅ、ひふの いろ、みんぞくてき または こくみんてきしゅっしん、しゅうきょう、せいべつ または せいてきしこうに もとづいて、ひと または しゅうだんを きょうはくした ものは、ろくげついじょう ごねんいかの けいじしせつしゅうようとする。

けいほうてんに きていされており、つうじょうの ヘイトスピーチきていと どうように かんがえられている。

 

-スロヴァキアにおいては、けいほうに さまざまの ヘイトスピーチきていがあり、ネオナチ そのたの うんどうへの きょうかんを こうぜんと ひょうめいすることだけでなく、ホロコーストを ぎもんし、ひてい、ようにん または せいとうかすることも はんざいかしている。

けいほうてんに きていされており、ヘイトスピーチの いっしゅとされている。

 

マケドニアにおいては、けいほうだい407(a)じょう「ジェノサイド、じんどうに たいする つみ、せんそうはんざいの ようにん または せいとうか」は、けいほうだい403じょう~407じょうに きていされた はんざいを、じょうほうシステムを つうじて、こうぜんと ひてい、ひどく わいしょうか、ようにん または せいとうかした ものは いちねんいじょう ごねんいかの けいじしせつしゅうようとされる。ひてい、わいしょうか、ようにん、せいとうかが、その こくみん、みんぞく、じんしゅてきしゅっしん または しゅうきょうゆえに、ひと または しゅうだんに たいして ぞうお、さべつ または ぼうりょくを せんどうする いとをもって なされた ばあいは、よねんいじょうの けいじしせつしゅうようとされる。

けいほうてんに きていされ、ヘイトスピーチの いっしゅとされているいるが、せんそうはんざいかんれんじょうこうとの つながりも いしきされている。

 

ルーマニアにおいては、2002ねんの きんきゅうほうりつ31ごうで ファシスト、じんしゅしゅぎしゃ、がいこくじんけんおの せいしつを もった そしきと シンボル、へいわに たいする つみや じんどうに たいする つみを おかした はんざいしゃを びかすることを きんし。「アウシュビッツの うそ」ほうとして、ファシスト・シンボルほう だい6じょうによると、いかなる しゅだんであれ、おおやけの ばで、ホロコースト、ジェノサイド あるいは じんどうに たいする つみ、または その きけつを、ぎもんしし、ひていし、ようにんし または せいとうかすることは、ろくげついじょう ごねんいかの けいじしせつしゅうよう および いっていの けんりていし または ばっきんを かされる

 

アルバニアにおいては、2008ねん11がつ27にち、けいほう(1999ねん)が かいせい。けいほうだい74じょうは ジェノサイドや じんどうに たいする つみに こういてきな ぶんしょを コンピュータじょうで はいふし、ジェノサイドや じんどう人に たいする つみにあたる こうい(じじつ)を ひていし、わいしょうかし、ようにんし または せいとうかする ぶんしょを コンピュータ・システムを もちいて、こうぜんと ていじし、または はいふした ものは、さんねんいじょう ろくねんいかの けいじしせつしゅうようとする「アウシュビッツの うそ」きてい。

(しょうさいについては まえだあきらしブログいあんふ」ヘイト・スピーチしょばつほう ひつようだ(2)http://maeda-akira.blogspot.jp/2014/07/blog-post_5.html

 

 かっこくにおいて もろもろの ちがいは あるが、これらのうちの たいはんの くににおいては れきしひていはんざいは レイシズムゼノフォビアと むすびつけられて ヘイトスピーチの いっしゅとして いちづけられている ということが いえるだろう。

 

3-2.にほんにおける ヘイトスピーチきせいろんと れきししゅうせいしゅぎの かんれん

 この スタンダードからすると、ほんこう2に いんようした あべしんぞうの“にほんの イメージは おおきく きずついた『にほんが くにぐるみで せいどれいにした』との、いわれなき ちゅうしょうが いま せかいで おこなわれている”、はしもととおるの “にほんが せいどれいを つかったと せかいから ひはんを うけた”、たかいちさなえの“いあんふもんだいは、にほんや こくみんの めいよを しょうらいに わたって きずつけるじょうほうが かいがいに はっしんされているので、しっかりと うちけしていく”などの はつげんが きょようされる よちは ないはずだが、それどころか とうの じみんとうが ヘイトきせいPTを もうけたり はしもととおるが しちょうを つとめる おおさかしでも ヘイトスピーチたいさくとして しんぎかいを ひらいている。

 こくれんからの かんこくも あとおしになって いるのだろうが、7がつ24にちの きやくじんけんいいんかいからの かんこくにしても、8がつ29にちの じんしゅさべつてっぱいいいんかいからの かんこくにしても なにも ざいとくかいによる ヘイトスピーチだけを もんだいに しているわけでは とうぜん ないのである。じんしゅ・みんぞくさべつについて げんていしても、こうじんによる ヘイトスピーチは もちろんのこと、ちょうせんがっこうせいとに たいする こうこうむしょうか、ほじょきんからの はいじょの かいしょう、ざいにちがいこくじんこうれいしゃ、しょうがいしゃの むねんきんじょうたいの かいけつ、にほんぐんせいどれいせいひがいしゃに たいする ほしょうや めいよかいふくなどに ついても げんきゅうしているにも かかわらず、にほんの メディアの ほとんどは ざいとくかいによるヘイトスピーチばかりを しょうてんかしている。ひとつの さんこうとして 8がつ5にち~10がつ5にちの 2かげつかんにおいて、あさひしんぶんで ヘイトスピーチを あつかった きじは 100けんていど、「いあんふ」は 150けんていど、ヘイトスピーチと「いあんふ」が おなじ きじの なかで でてくるものは 5けん、よみうりしんぶんでは どうきかんにおいて、それぞれ 30けん、120けん、3けんであり、いずれにおいても にほんぐんせいどれいせいの ひていを ヘイトの もんだいとして、あるいは それに つながるものとして あつかったものは かいむであった。

 ヘイトスピーチに たいする せいじかたちの はんのうとして とりあげられているのも つぎのようなものである。

 

あべしんぞう(そうりだいじん):“にほんの ほこりを きずつけ、こくさいしゃかいからみて はずかしい”

 

はしもととおる(おおさかしちょう):“ちょっとひどすぎる。ひょうげんの じゆうを こえている”“さいきんの ざいとくかいデモの ほうこくを みるかぎり、『しね』や『ころせ』とかはなくなって、ひょうげんは きわめて おんとう。これは しゅちょうや デモとして みとめられなきゃいけない”“(とくべつえいじゅうしかくについて)そろそろ しゅうそくに むかうべき。みらいえいごう つづくものではない。”

 

ますぞえよういち(とうきょうとちじ):“ごりんかいさいちに ふさわしくない

 

(いかは ヘイトスピーチきせいを もとめる いけんしょを さいたくした ぎかいの はたふりやくとなった ぎいん)

よごさやか(なごやしぎしぎ):“『じんしゅさべつ』という ひょうばんが ひろまれば にほんの しんようを おとす”

 

うえむらかずこ(くにたちしぎ):“くにたちでも ヘイトスピーチに ちかいことは おこっている。だれもが あんしんして くらせる くにに するため、ちほうぎかいから こえを あげていくことは だいじ”

 

かじむらけんじ(ならけんぎ):“ならは、さべつに こうした すいへいしゃうんどうゆかりの ち。くちびを きる いみは おおきい”

 

 これらについて、ねんとうに おかれているのは ざいとくかいらによるイトスピーチという てんでは すべてに きょうつうしており、そこに れきししゅうせいしゅぎの かんてんはない。はしもとにいたっては ようは「やりすぎだから、もうすこし おとなしく」と いっているにすぎない。ざいとくかいかいちょうの さくらいまこととも ちゃばんめんだんを おこなったが、はしもとが さくらいを「さべつしゅぎしゃ」とよぶ こうけいは シュールである。そして よくじつには もとざいとくかいかいいん元が いしんから しゅつばすることが ニュースとなったことと はしもとが さくらいに たいして 「せんきょやって うったえろよ」と はっぱを かけたことを いくぶんじゃすいこみで つなげてみれば できレースが かんせいする。そのうえに、じっさいに さくらいが しゅつばしなくても とくべつえいじゅうしかくについて みなおしを うったえるなど ちゃっかり ざいとくかいのための 「だいこう」せんげんまで しているから、あの めんだんは そうほうにとって とくしかなかっただろう。なごやしについては げんえきしちょうの かわむらたかしが なんきんぎゃくさつを ひていする バリバリの しゅうせいしゅぎしゃであるが、なんきんぎゃくさつひていは いっぱな ヘイトスピーチでは ないだろうか。また「ごりんかいさいちに ふさわしくない」(ますぞえ)や「にほんの ほこりを きずつける」(あべ)、「にほんの しんようを おとす」(よご)といった はんのうはどれも ひがいしゃの じんけんを まもるという もくてきいしきを かいた じこちゅうしんてきな してんであり、あさひバッシングと おなじ こうぞうである。おぞましいのは れきししゅうせいしゅぎと ヘイトスピーチきせいろんが にほん(じん)の めいよかいふくとして りょうりつ してしまっていることである。しょくみんちしゅぎの ぼうりょくによる ひがいしゃの そんざいを さいど きりすてて きゅうそうしゅこくの めいよへと すりかえる ていこくしゅぎてきナショナリズムを ここに みいださずには いられない。

 

4.ヘイトスピーチに たいこうする うんどう

4-1.「こくみんききん」という「げんじつしゅぎ」の非現実さ

 ここで すこし うかいして「こくみんききん」の はなしを するが、いかは とうじ、にほんの ちしきじんが かんこくの ちしきじんとの あいだで かわされた おうふくしょかんのうち、にほんがわから かんこくがわに おくった てがみの いっせつである。

 

 “にほんせいふにとって、「じゅうぐんいあんふ」もんだいは こっかが おかした せんそうはんざいであると ほうてきに みとめることは むずかしい”

ざんねんながら にほんと ドイツとは ちがいます。……げんざいの ドイツこっかは ナチこっかの がかいのあとに うまれた。ナチこっかと だんぜつした こっかだからです。……にほんの せんごこっかは せんぜんこっかと れんぞくせいを ゆうしており、したがって かこの せんぞうはんざいを ただの ひとつも ただの いちども じぶんでは さばけなかったのです。ななさんいちぶたいのような れきぜんたる はんざいにも ほうてきな しょりは なされませんでした。このような にほんこっかに いま せんそうはんざいを みとめ、ほうてきせきにんを とるように もとめても むずかしいと おもいます”

「なぜ こくみんききんを よびかけるのか」(おおたかよしこ、しもむらみつこ、

のなかくにこ、わだはるき)より

 

 1995ねん とうじの(2014ねん げんざいにおいても)げんじょうにんしきとして まちがっていないが、「こくみんききん」ていあんしゃは にほんこっかの「れんぞくせい」をたつ どりょくを やくそくするのではなく、かわりに「こくみんききん」という かたちで けっちゃくを つけさせてくれと ひがいしゃに せまってしまった。「こくみんききん」について たかはしてつやは、これが「げんじつしゅぎてき」な アプローチとして しじされたとし、「うはせいりょくの キャンペーンや「たいせいよくさん」てき せいじじょうきょうのなかで、メディアは すっかり たいせいついずいに まわっています。そこでは じしょう「げんじつしゅぎてき」な げんせつだけが やすやすと りゅうつうし、そのけっか、あたりに ネオ・ナショナリズムてきな ふんいきが まんえんしている」(「だんぜつの せいき しょうげんの じだい」2000)と してきしている。しかし、その「げんじつしゅぎ」は けっきょくは ひがいしゃからの うけとり きょひという かたちで、きわめて ひげんじつてきな かいけつさくであったことが あきらかになったばかりか、うけちるか きょひするか せまられた ひがいしゃかんを ぶんだんさせんとした つみぶかさもある(さいきんでは ききんの りじであった おおぬまやすあきが ぎゃくギレを おこしているが とんでもない はなしである)。

 「げんじつしゅぎてき」アプローチとして しゃかいうんどうの ほしゅか・うけいかが とくに 3.11いこうに さらに ひろがっているとしか おもえないなかで、ヘイトスピーチをめぐる うんどうにおいても おなじことが おきていないだろうか。

 

4-2.「カウンター」うんどうにおける ナショナリズム、ほしゅ・うよくの さんにゅう、さよくはいじょ

 さっこんの「カウンター」として おおてメディアにも しばしば とりあげられるようになったものとしては 「しばきたい」(CRAC)、「なかよくしようぜ」プラカたい、おとこぐみ、などがあり、これらの かつどうの もりあがりは かんしんそうにとっては しゅうちの こととなり、きょねんと ことしに おおさかでは「なかよくしようぜパレード」が、とうきょうでも「とうきょうだいこうしん」の 「せいこう」は メディアにも とりあげられた。この うごきに こぶされるように がくしゃや ぶんかじんを ちゅうしんにした「のりこえねっと」が たちあがったのも ほんブログを およみくださっている かたがたには きちのことだろうし、これらについて これまで ほんブログでも もんくは つけてきたので ぐたいてきには いかの きじなどを さんしょうしてもらいたい。

 

1)あのね、あなたはね、のりこえられるほうなの…

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2014/03/16/011619

 

2ナショナリズムは はんレイシズムうんどうにとって しげんになるのか?

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/12/12/204100

 

3)「サヨク」が ざいとくかいを うんだのか?

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/11/01/160258

 

4)ほんとうに「レイシスト」をしばけるの?①~⑤

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/10/02/204527

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/10/02/204710

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/10/02/204825

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/10/02/205409

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/10/02/205512

 

5)「おとこ」ちゅうしんしゅぎに あらがって①~②

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/10/02/201711

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/10/02/201836

 

6)さべつに たいして さべつで たいこうしてもいいの?

http://kotokotonittei.hatenadiary.jp/entry/2013/11/01/161848

 

 これらの きじでは「カウンター」うんどうが ナショナリズムを あおるかたちで、ときに ぼうりょくてきなまでの さよくはいじょを ともないながら、ほしゅ・うよくの さんにゅうを せっきょくてきに うながしてきた うんどうの ありかた、ぼうりょくてきな だんせいせに たいする むひはんな しょうようや ざいとくかいらに たいじするにあたって スティグマを きょうかするような げんじを もちいることで セクシズムや ルッキズム、しょうがいしゃさべつなどを くりかえしていることなどに たいする ひはんなどなどがある。

 たしかに「カウンター」うんどうは もりあがった/ているっぽい。しかし、うんどうの<たいしゅうか>が ほしゅ・うよくの さんにゅう、さべつに たいする じかいのないものたちの さんにゅうによって、つまりは わるい いみで そのまんま「ふつうの ひとたち」の 「ふつう」が とわれないという じょうけんによって はたされてきたのを たいせいがわは とうぜんに みぬいていたであろう。そして それこそが ヘイトスピーチきせいろんが いよいよ ふかぎゃくてきな フェーズに きているなかで、ヘイトスピーチきせいろんに みずから さんにゅうしつつ どうじに しゅうせいしゅしゅぎげんせつを ろこつに こうげんすることで きょようかのうな ライン、ヘイトスピーチと れきししゅうせいしゅぎを せつだんする ラインを そこに ひいてしまっていることを やすやすと ゆるしてしまっている、いや むしろ あとおしをしてしまったのでは ないだろうか。

 

おわりに

 この じょうきょうで ヘイトきせいと いわれても なにが きせいされるか ふあんは おおきいし、もっと「ちょっと まってよ!」と いいたい。

 

コトコトじっくりにこんだにってい♪(レのはちぶおんぷ)